日記(小沢氏のこと)

青字は引用です。

我家のテレビは映らないので、朝日新聞からの情報だが、
民主党の小沢氏が先月、「キリスト教もイスラム教も非常に排他的だ。その点、仏教は非常に心の広い度量の大きい宗教、哲学だ」と言ったとのこと。
さらに昨日(7日)キリスト教の関係者(カトリック、プロテスタント双方)と会談した後の記者会見でも、同様の見解を述べた。
長いが、その、朝日新聞による要旨を全て引用する(09年12月8日朝日新聞)。
西洋文明というのは背景にキリスト教の哲学があり、東洋には文明の背景に仏教の哲学がある。そういうことを申し上げたかった。私どもは、人間の営みは大自然の中の一つであるというとらえ方をしております。けれども欧米の人たちの考え方は、万物の霊長たる人間が最高位にあって、自然も含めて人間のためにあるという発想。そこの違いがある。
これはあくまでも朝日新聞による“要旨”であり、元の発言との相違は分からないが、書きます。

この発言は「西洋文明」「東洋文明」「文明の背景」「キリスト教仏教の哲学」「私ども」「欧米の人たち」という、漠然とした単語ばかりで、内容が不明瞭だと思う。
西洋文明」とは何か?例えばどこの国のどんな文明のことなのか?地図に線が引けるような概念なのか?逆に、キリスト教徒がある割合以上に存在する国を西洋と呼ぶのか?西洋文明に南米は入るのか?フィリピンは東洋なのか?
文明の背景」とは、奥の深そうな言葉だ。「キリスト教の哲学」も複雑な内容がありそう。「私ども」って、誰のことか?そこに僕は入っているのか?。「欧米」か…。
小沢氏が言っていることは漠然としすぎている。漠然としすぎて根拠の示しようがない。
勝手に推察するが、いつかどこかで読んだ考えがそのまま頭に残っていて、いつのまにか自分の考えになっているのではないだろうか?だから問題視されても同じことを繰り返し述べるしかない。深く考えずに発言したと思われたくないので、簡単には引き下がれないのだろう。
僕は、仏教徒にもキリスト教徒にもイスラム教徒にも、度量の広い人もいるし狭い人もいると思う。寛容な人も排他的な人もいる。それは、当たり前のことではなかろうか。
小沢氏のように大雑把に決め付けてしまっては、対立を煽るだけだ。
重要な役職にある政治家が、宗教的偏見を持っていることがとても悲しい。
そして、日本のキリスト教徒の人口が、政治家に無視されるほど少ないことが少し寂しい…。

今日の日本テレビ「ZERO」の番組欄に、「犬や猫の殺処分ゼロを目指せ」とある。
上の小沢氏の発言には、「私どもは、人間の営みは大自然の中の一つであるというとらえ方をしております。けれども欧米の人たちの考え方は、万物の霊長たる人間が最高位にあって、自然も含めて人間のためにあるという発想。」とある。
揚足を取るようだが、殺処分は明らかに“人間様”の仕業だろう。殺処分はやめるべきだ。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

吉野秀雄の一首

今日は、吉野秀雄の短歌を紹介します。
敬称略で失礼します。
青字は引用です。

これやこの一期の命炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹

(これやこのいちごのいのちほむらだちせよとせまりしわぎもよわぎも)

この歌は、1944年(昭和19年)に亡くなった妻に対する絶唱です。
吉野自身による註を引用します。
これは八月二十六日(死の前日の夜)の出来事であった。看護婦が席をはづしてすぐ、「こんな死ぬばかりのからだになっても……。」といひ出した亡妻の真剣必死の声をどうして忘れることができようか。彼女の人間愛の最後の大燃焼であり、炎々たる火炎の中に骸(むくろ)となつていつたと観るべきである。事ここに及べば、肉体も精神も糞もない。そんな分別は人間を全体として捉へることのできぬ青瓢箪者流のたはごとに外ならぬのだ。―ただこれだけをいふ。南無阿弥陀仏。」(吉野秀雄全集第二巻「自註 寒蝉集」p402)

さらに、吉野の弟子、木村聰の「吉野秀雄歌解」から引用します。
初句「これやこの」は、かねて聞いていたことを詠嘆的に述べる言い方で、これがかの何々であることよの意。  ―中略―   「一期」は、人間のこの世に生存する間、つまり一生涯。「炎立ちせよ」は、火炎となって燃焼させよということ。「炎」と「立つ」を複合させた秀雄の造語とみるべきであろうか。」(p170)
「吾妹」とは、男性から親しい女性をいう語、妻、恋人のこと(旺文社古語辞典)。

また、同じ「吉野秀雄歌解」に引用されている、文芸評論家山本健吉による解説です。
これほど厳粛なものとしてよまれた男女交合の歌は、ほかにないのです。しかも、そこには、そのことをおぼめかし、美化して歌おうとする配慮の一点の余地もないのです。その命の合体の一瞬に、いささかの享楽的要素もないのです。
 なにか根源の生命への欲求、愛憐の情の極致ともいうべきものに促された、せっぱつまった一つの行為であり、それゆえそれはこのうえもなく厳粛なのです。
 こういう歌は、めったに作られるものではありません。こういう歌を作るには、やはり作者の大きな勇気がいります。人生の厳粛な真実に、おめずに立ちむかおうとする勇気です。そのために、わたくしはあえてこれをここに取り上げました。
」(p170)
ちなみにこの山本健吉の評は、同時に詠まれた、以下三首についてのものです。

真命(まいのち)の極みに耐へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ

 …木村聰「吉野秀雄歌解」p170…「真命の極みに堪へて」は、生命がいままさにつきようとするその極限に堪えてということで、「真命」の「真」は体言・形容詞などに被せる「本当の」などの意を表わす接頭語。「ししむら」は肉塊、ここでは肉体。結句「あはれ」はさまざまな意義があるが、ここでは、嘆賞、親愛や同情、悲哀などのしみじみとした感動を表わす感動詞として理解すればよいであろう。

これやこの一期の命炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹(冒頭の一首)

ひしがれてあいろもわかず堕地獄(だぢごく)のやぶれかぶれに五体震はす

 …木村聰「吉野秀雄歌解」p171…初句「ひしがれて」は、おしつぶされて、くだけて、の意で、二句「あいろもわかず」の「あいろ」は「文色」、つまり「あやいろ」の約で、様子とかものの区別、「わかず」は区別なく。三句の「堕地獄」は  ―中略―  地獄におちることであるが、一首(この歌)では夫人との訣別の愛に身も心も焼きつくした―それは厳粛であり、愛の極限ではあるが、反面、かかる夫婦間の行為もこれが最後であるという非痛感とともに、秀雄の言を借りれば、「人間の奥深さ、愛情の不可思議さにぶちのめされた」という動転した心理状態を説明する表現である。 

また、この山本健吉の評は、吉野自身も「前の妻・今の妻」(講談社刊、随筆集「やはらかな心」所収)という随筆に紹介しており、それによると、山本健吉著「日本の恋の歌―万葉から現代まで」(講談社・現代新書)からの引用です。
この評に対し、吉野はこう書いています。
わたしはてれて、これを書き取るに抵抗を感じたが、しかしこんなにも深い理解のえられたわたしのよろこびをころすことはできない。」(全集第五巻p21)

これらの歌は、吉野秀雄著、短歌新聞社刊「寒蟬集(かんせんしゅう)」にあります。
この「寒蟬集」に衝撃を受けた後、今は全集(全九巻)を手に入れ、それを読むのが毎日の楽しみです。
吉野秀雄の詩情と、それを短歌に表す技術は、見事としか言いようがない。
随筆もいいです。

今ネットで調べたのですが、「寒蟬集」が品切れになっていました…。
アマゾンの中古は、異常に高いのでやめたほうがいいです。
「寒蟬集」(短歌新聞社刊は文庫本です)一冊で1万円を超えています。
日本の古本屋というページのほうがいいかもしれません。
僕はここから全集を買いました。
きっと図書館にはあると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中城ふみ子のこと

敬称略で失礼します。青字は引用です。

渡辺淳一の「冬の花火」を読みました。
32歳で亡くなった歌人、中城ふみ子の“伝記的小説”です。
“伝記的小説”なので、事実と異なる部分がある上に、どこが事実と異なる部分なのか、読者には分かりません…。
しかし、中城ふみ子の歌の背景を理解する助けにはなります。

中城ふみ子は1922年帯広生まれ、1942年20歳で結婚、29歳で離婚。
1952年30歳の時に左乳癌手術をしたが、31歳で癌が再発し、8月に死去しています。

小説によると、かなり自由な人だったようで、1951年正式に離婚する前から、死の直前まで、心の赴くままに幾人かと、しかも堂々と恋愛を繰り返していました。病床でも化粧を怠らず、たくさんの見舞客の中で、女王様的な振る舞いでした。
中城が存命中、全国的に有名だったのは、晩年の数ヶ月だけです。
1954年4月「短歌研究」誌の第一回50首詠(新人賞)入選、5月「短歌」誌に51首発表、7月第一歌集「乳房喪失」を出版した後、8月に死去しています。

短歌をいくつか紹介します。

第一歌集「乳房喪失」から

冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無残を見むか 

唇を捺されて乳房熱かりき癌は嘲ふがにひそかに成さる 

ゆっくりと膝を折りて倒れたる遊びの如き終末も見え

死後に出版された第二歌集「花の原型」より

放射の位置示す医師の指先がわが背すべれど愛撫には似ず 

この夜額に紋章のごとかがやきて瞬時に消えし口づけのあと 

樹々の葉が苦渋にみちて鳴る森を畏れをもちて夜は思はむ 


中城ふみ子と三浦綾子は同い年です。
三浦綾子は1946年24歳の時に肺結核を発病し、以来37歳ころまで闘病生活をしているようです。27歳の時自殺未遂をし、1952年30歳の時、受洗しました。当時話題になっていた中城のことを、三浦綾子は知っていたのでしょうか。
「冬の花火」によると、中城が晩年入院したとき、二人部屋の同室の人は、クリスチャンでした。同じように末期の癌であり、聖書を熱心に読んでいました。しかし、中城はクリスチャンにならなかった。クリスチャンの僕としては残念な気もしますが、信仰へと逃げない強さが、彼女の歌を魅力的にしているような気もします。
受洗までの三浦綾子と、晩年の中城は、とても似ているような気がします。死の恐怖に押しつぶされそうな若者として、投げやりな中で研ぎ澄まされていく感性が…。
中城のキリスト教に対する見方を、もう少し詳しく知りたいとも思いました。
最後に、「花の原型」から…。

ざはめきの中にキリストを見失ひわたくしの死は既にはじまる



新編・中城ふみ子歌集 (平凡社ライブラリー) Book 新編・中城ふみ子歌集 (平凡社ライブラリー)

著者:中城 ふみ子
販売元:平凡社
Amazon.co.jpで詳細を確認する



Book 冬の花火 (角川文庫)

著者:渡辺 淳一
販売元:角川書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

車谷長吉「盬壺の匙」

塩壷の匙 (新潮文庫) Book 塩壷の匙 (新潮文庫)

著者:車谷 長吉
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

今日はこの本(「しおつぼのさじ」)を紹介します。
敬称略で失礼します。青字は引用です。
また、パソコンで出ない字体は、出る字体で失礼します(「盬壺」の“盬”など)。

著者27歳から、47歳までの間の小説集。
贋世捨人」にある自筆年譜によると、この短編集の最後に収められている「盬壺の匙」が藝術選奨文部大臣新人賞、三島由紀夫賞を受賞しています。

27歳から47歳まで、執筆年齢に幅がありますが、それをあまり感じないことに驚きました。若いときから一貫して同じものを見てきた人なのだろうと思います。若くして老成していたというか。

この本を読んでいる途中、何度か、J.G.バラードを思い出した。人間関係を執拗に描写するのに、その中で主人公=著者=自分だけよそ者であるかのような孤独を感じるからだろうか。どぎつい原色の生命力と、それが褪せていくやるせなさを感じるからか。異様な物語の中に、他人ごとではない何かがあり、拒否感と共感の入り交じった読後です。

正直いうと、こういう小説について何を書いていいのかよく分かりません。語彙が少なくて、とても僕には太刀打ちできません。
というわけで、僕が一番好きな場所を引用して終わりにします。引用が長い上に、前後の繫がりがないので話が見えないかもしれませんが、勘弁してください。

 それから夕暮れまで私は机の前に座っていたが、取り留めもなく気持が無限に散らばって行き、それらを取り押さえようとすれば、頭の芯だけが深い穴の底へ辷り落ちて行くような心地がした。目の前に開いた本の、行と行の隙間が光っていた。笹原さんが怒りから一転して、ふと不安気な声を出した時に感じた世界に、私は座っているのだった。神経が苛立ち、座ってもいられないような気分だったが、私は奥歯を噛んで座っていた。日の短くなった十一月半ばの夕焼けが、縁側との界の硝子障子を紅く染めていた。併し軒の深い部屋の中は薄暗く、もう文字も判読できない本の頁だけが、ぼうと白く浮んでいた。軈て部屋の中は真ッ暗になった。私はそのまま座っていた。今が今のことに囚われて小手先の事を選ぶなら、ともかくそれでどうにか渡って行けなくはない世の中である。そんなことでいいと考えるのなら、東京でも凌げないことはなかったのだ。併し私の中の「愚か者」がそれを許さなかった。今ここでじたばた動いてはあかん、僅かばかり残ったもの、その凡てが崩れ落ちるまで待つんだ。私は更めて自分にこう言い聞かせ、闇の中で唇を撫でていた。(p231-232)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

車谷長吉「贋世捨人」

贋世捨人 (文春文庫) Book 贋世捨人 (文春文庫)

著者:車谷 長吉
販売元:文藝春秋
Amazon.co.jpで詳細を確認する


今日はこの本を紹介します。
敬称略で失礼します。青字は引用です。

朝日新聞の「悩みのるつぼ」という悩み相談の回答者として、最近名前を知りました。「くるまたにちょうきつ」と読みます。
その正直すぎて破滅的な回答に魅力を感じ、今回本を買ってみました。
「赤目四十八瀧心中未遂」で直木賞を受賞している他、いくつかの文学賞を受賞しています。

この「贋世捨人(にせよすてびと)」は私小説です。25歳の時、西行に影響されて「自分も世捨人として生きたい」と思ったが、「出世遁世を果たし得ず、贋世捨人として生きて来た(p7)」主人公≒著者が、作家として生きる決意をするまでの紆余曲折が描かれています。かなりの部分が、著者自身の人生と重なっているようですが、私小説とは、こんなにも赤裸々に自分のことを書くものなのかと、驚きました。他人の人生を覗き見しているような、軽い罪悪感すら抱かせられます。

著者はかなり屈折している、というか、屈折を隠さない人です。例えば、「僕は高等学校入学試験に落ちて、いまだにそれが悔しいから、全国の名門高等学校の名前を全部記憶しているんです。そういうところを出た人には、敵意と劣等感をいだいているんです。(p171)」など、思っていてもあまり言わないだろうな、ということも隠さない。登場人物の多くに、○○大学○○学部卒、とか、高卒、とか中卒、など、学歴が付してあるのも、屈折を感じさせる。
しかし読み進むうちに違和感を感じなくなり、そういう屈折が実は僕にもあることを自然に受け入れてしまいます。著者の極私的な出来事や思いが、いつの間にか読者自身のことと重なり合う、これが私小説というものなのか、と思いました。

自虐的性向を、生真面目に、正直に綴るが故のおかしみがあり、暗いだけではありません。著者独特の文体も心地よかったです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ご冥福をお祈りします。

以前、中川元財務相についてブログに書いたので、今回の訃報には驚きました。
早すぎる、無念の死だったと思います。

中川さんのご冥福をお祈りします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

横山未来子歌集「花の線画」

Book 花の線画―歌集

著者:横山 未来子
販売元:青磁社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

今日はこれを紹介します。
敬称略で失礼します。
青字は引用です。

前回紹介した「横山未来子集」には、
著者の第一歌集(全)と第二歌集(抄)が収録されていて、
今回の「花の線画」が第三歌集です。

前作と同様、言葉と言葉のつながりがとても美しく、
心地よかったです。
短歌のひとつひとつが小さな縦長のモビールで、
エレメントがそれぞれに光を反射させているのを、
上から下へ見ていくような、そんなイメージです。

今作は、恋の歌がなかったような気がします。
少なくともそういう印象でした。
帯にあるとおり、
身の回りの猫や蝶、風といったものを歌っているのですが、
どこか「この世に生きる哀しさ」を感じます。


水に乗る黄葉の影よろこびは遠まはりして膝へ寄り来つ

家の隅に保てるほそく青き火をこころに置きて本を読みゐつ

地上へとすべり降り来る雀たち軽からむ今年生まれたる身の

浅き皿に水浴みに来る鳥のごとをりをりこころ降るる場所あり

散り敷ける桜花びら風吹けば立ちあがり我に来るものもあり

これらは今パラパラと本をめくって適当に引用しました。
本の前半部分にある歌です。
なんと言ったらいいのか自分でも分かりませんが、
好きなんです、こういうのが。
最後の桜の歌は、情景がはっきりと目に浮かぶけど、
その情景を実際に見たとしても、
僕には絶対にこの歌を作ることは出来ないだろうな、と思う。
黄葉やガスコンロの火、雀、鳥など、
普段身の回りで存分に見慣れているものが、
こんな風に切り取られていくんだ、
という感動があります。


北風が真白き布をひるがへす日曜日には歌をうたはむ

これ、賛美歌でしょうか。爽やかです。北風と真白の布が。


湯のなかに趾とほく伸ばしゐる今宵ひと生のなかば過ぐらむ (趾=あしゆび)

この歌は著者が30歳を過ぎたころの歌と思われます。
確かにこの頃、こういう気持ちになりました。
これからは衰える方向か…という寂しさ。
でも、著者の意図は違うかもしれません。

それにしても、短歌がこんなに癒してくれるとは思いませんでした。
また、知らない言葉がたくさんあることにも気づかされました。
ありがとうございます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

歌集「横山未来子集」

横山未来子集 (セレクション歌人 (30)) Book 横山未来子集 (セレクション歌人 (30))

著者:横山 未来子
販売元:邑書林
Amazon.co.jpで詳細を確認する

今日はこの本を紹介します。
敬称略で失礼します。
青字は引用です。

最近なぜか、短歌ばかり読んでいます。
文章を読むのとは異なり、
一首ごとに、
気持ちを新たにして読まないといけないので、
思ったより疲れます。

今読んでいるこの歌集は、
横山未来子の、
第一歌集「樹下のひとりの眠りのために」の全歌と
第二歌集「水をひらく手」の抄出、
「水をひらく手」以後の数首、
いくつかの散文、
が収録されています。

前回の俳句の時と同様、
読めない漢字もたくさんありますが、
読める範囲で、好きな歌を引用します。

ゆたかなる弾力もちて一塊の青葉は風を圧しかへしたり

胸もとに水の反照うけて立つきみの四囲より啓かるる夏
 (啓=ひら)

包みゐるわがてのひらに抗ふをつよき光の中へ還さな

空占めて幾千の実を掲げたし樹下のひとりのねむりのために

自転車の擦り抜くる時さらさらと花びらは地をしばし走りつ

さかのぼりゆくおもひあり一斉に欅並木は葉を手放せり

またひとつの眠りをわれは潜り来てけさのひかりに息つぎをしつ
 (潜=くぐ)

この歌集中、
読めない字がある歌以外は、
ほぼ全て好きですが、
今ぱっと見て抜き出してみました。
特に上では2首目の「胸もとに…」が好きです。
初めてこれを読んだ時、
頭の中で映像が振動しました。
水の反照をうけている胸から、
その周囲へ、その奥へ、
一瞬のうちに広がっていく光が見えました。
3首目は蝶の歌です。
抜き出した上の歌だけを見ると分りませんが、
収録歌の多くが恋の歌であり、
一見して恋の歌でなくても、
前後を読んでいると、恋の歌だと気付きます。
歌と歌が呼応しあって、読み返すうちに一つの景色が浮かんできます。

今まで、文語、古語は、
僕には読めない言葉として、ほとんど読んだことがありませんでしたが、
この歌集で初めて、文語を美しいと思いました。
また、漢字とひらがなの使い分けや、
予想外の、そして的確な比喩が、
とても心地いいです。
ちなみに、著者の比喩については解説で触れられています。

というわけで、
今は短歌しか読んでないので、
このブログの更新も滞るかもしれません…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

柿内夏葉子著「句集 信仰」

先週だったか、先々週だったかの朝日新聞の広告で知りました。
俳句には縁のない僕ですが、
なんとなく気になって、
アマゾンで見たら取り扱いしてないとのこと。
それでさらに気になって調べたら、
楽天ブックスにならあると知り、
気になった勢いで買いました…。
楽天ブックスは送料無料キャンペーン中だったし。

今アマゾンを見たら、中古のみ扱いがありました。
が、1365円が、4922円!になっています。
出品者(2点)からのコメントには、
「amazon在庫切れ、在庫僅少品のため定価より高額となっております」
「新品未読品です。本商品在庫切れの場合がありますが、その際は速やかに返金処理させて頂きます。また、在庫状況により定価以上になっている場合がございますが、希少品ということでご検討よろしくお願いします」とあります。
アマゾン上、在庫がないことにつけこんで高値にしているのでしょう。気をつけて下さい。
僕もアマゾンで転売しようかな…。
楽天には新品、在庫があります。(8月9日現在)
http://item.rakuten.co.jp/book/6120620/
なお、出版は、発行所:美研インターナショナル、発売元:星雲社です。

俳句をどう“鑑賞”したらいいのか分からない上、
知らない漢字もたくさんあり、振り仮名も振ってないので、
読み上げることすら出来ない句も結構ありました…。

その限定された中で、
いいなと思った句を紹介してみます。
青字は引用です。

そばへ降る病む一と日は神失ふ
僕は、自分の体のどこかが痛いと気が気でなくなり、すぐに神どころではなくなってしまう。

どくだみの香の拡がれり十時切る
暑い夏の日、草取りをしていてどくだみを切ると、独特の香りでシャキッとします。
十字型の花もかわいい。

CDのポツリと切れる空は秋
今の若者はCDじゃないのかもしれませんね。
CDが鳴り終わった時に気づく、秋の音や冷たい空気、分る気がします。

教会の鈴なりの柿なぜ捥がぬ
確かに、今は誰も捥がない柿の木がたくさんあります。
ちょっとクスリとしました。

メサイヤの余韻寒気に頬打たす
僕も、冬、メサイヤを生で聴いてみたいです。

最後に、
モーツァルト生誕二五〇年
これって、俳句なんだ…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

湊かなえ著「告白」

今日はこの本を紹介します。
青字は引用です。

告白 Book 告白

著者:湊 かなえ
販売元:双葉社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ミステリーはあまり読まないのですが、
書評を読んで以来、この本が気になっていました。
で、図書館にあったので借りてみました。

終業式の日、先生が、
担任しているクラスの生徒の前で、
自分の娘を殺した生徒に対しての
復讐を告げる場面から、始まります。
そして、章ごとに異なる、
事件当事者達の独白によって、
読者は事件の背景を知っていきます。

…ミステリーなので、これ以上は書きません。
大雑把な感想だけ書きます。
これからこの本を読もうと思う方は、
ここから下は読まないで下さい。




面白かったですが、
僕にはミステリーは向いてない、と再確認しました。
話の中心が殺人事件なので、
読めば読むほど重い気持ちになっていきます。
読み終わっても、全貌が明らかになるだけで、
爽快感とは違います。

また、誰にも感情移入することが出来ませんでした。
登場人物が極端な人ばかりで、
非現実的だと感じました。
現実の犯罪は、
非現実的理由で起きるのでしょうが、
それにしても、
極端に歪んだ人達が、
一つの事件を取り囲んでいる、
という印象でした。

テレビドラマを見ている感覚でした。
観ている時は続きが気になって仕方がないけど、
終わると内容すら忘れてしまう。
まあ、僕にはミステリーは向いてないのでしょうね。

最後に、内容にはあまり関係ありませんが、
同感した文章を引用します。
いわゆる熱血先生が、
問題を起した生徒とばかり親密になっていくことについて、
道を踏み外して、その後更生した人よりも、もともと道を踏み外すようなことをしなかった人の方がえらいに決まっています。でも残念なことに、そういう人には日常ほとんどスポットが当てられません。学校でも同じです。そして、それが毎日まじめに生活している人に自己の存在価値への疑問を抱かせ、時として、マイナスの思考へと向かわせていく原因になっているのではないでしょうか。(p12)」

| | コメント (2) | トラックバック (0)

«ジョーゼフ.F.ガーゾーン著「ヨシュア - 自由と開放をもたらすひと」