暑いから打ち水を
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とにかく、暑いです。
倒れそうです。
早く冬にならないかなあ (;´ρ`)
今日はこの本を紹介します。
| ガリラヤ湖畔の人びと
著者:菅井 日人,小塩 節 |
小塩氏が文章、菅井氏が写真を担当されています。
月刊誌「信徒の友」に連載されていたものだそうです。
新約聖書の、ガリラヤ湖畔での出来事についての文章に、写真をつけたものです。
メインは文章です…写真集だと思って図書館で借りたら、文章が多かった…。
僕が言うのはおこがましいですが、なかなかいい本でした。
僕が言うのはおこがましいですが、文章がうまい。
小塩氏は、この本の紹介では、フェリス女学院院長です。
こんなところで「文章がうまい」と書かれていることを知ったら、苦笑いでしょうね。
印象深かったところを引用します。
マルコ 9:14~29(新共同訳の小見出しでは「汚れた霊にとりつかれた子をいやす」の部分)に関する章から…(赤字=引用)。
p43
行いすまして、立派に信仰者の生活を送っている、私には信仰がある、と自負したとたんに、そこには傲慢の罪がある。
信仰なきわれをと、うち砕かれた魂だけを神はよろこび、許し、救ってくださるのだ。
…こうして引用すると、インパクトが薄れますが…
文章全体を読むと、この言葉の重さを感じることができます。
信仰のためになる、いい本だと思います。…おこがましいですが…。
気安く買える値段ではないので、図書館で借りたほうがいいと思います。
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ねむの木の花が満開です。
写真が下手ですが… m(_ _)m
今日はこの本を読みました。
| アシジの聖フランシスコの小さき花 (続) (聖母文庫)
著者:石井 健吾 |
「続」とありますが、先日紹介したものの続き、というわけではありません。
原著者も違うみたいです(石井健吾氏は訳者です)。
この本は、
①聖フランシスコが受けた聖痕(両手両足、わき腹に現れた傷)の経緯
②兄弟ジネプロの伝記
③兄弟エジディオの伝記
④兄弟エジディオの言葉
⑤補足された章
からなっています。
こういうのをカトリック的、と言うのでしょうか。
清貧や謙遜、従順など、功徳を積むことが、
天国へ行くために重要なことだと書かれています。
天国へ行けなければ地獄へ行くと…。
仏教的、と言ってもいいのかな?だめかな?
ひねくれた僕には、なかなか全面的に受け入れることができませんが、
功徳を積むという考え方も、悪くはないと思います。
むしろいいかもしれません。
自分で自分を清くするという傲慢におちいらなければ。
エピソードの多くは、すでに知っていたので、
新鮮さがありませんでした。
エングルペールによる伝記より先にこっちを読めばよかった。
そうすればもっと楽しい本だったろうと思います。
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昨日(7月7日)の朝日新聞で、
森村泰昌氏と福岡伸一氏の対談が載っていました。
『美しいって死語ですか』という見出しです。
その中で、森村氏が次のように述べておられました。
(以下大きい文字は引用です)
福岡
そうなると、結果だけが評価され、プロセスはどうでもいいということになります。
森岡
競泳の水着問題も同じだと思いませんか。英国のスピード社製ならタイムが速くなるとして、選手が別のメーカーと契約しているにもかかわらず、日本水泳連盟はオリンピックでメダルを取るため着用を自由にした。「約束は必ず守る」という美学が、簡単に「勝ったもん勝ち」に話が変わってしまう。何が美しい生き方かということよりも、1等賞になれるかどうかが価値判断の基準になっている。
なるほど、その通りだと思いました。
僕も、スピード社が早いなら、それを着て当然だと思っていました。
これを読んでハッとしました Σ(・口・)
オリンピックにはそんなに興味はないですが、
レーザー・レーサーを着ていない選手に注目したいです。
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蒸し暑いです。
雨が降っているときだけ、
涼しく感じます。
今日はこの本を紹介します。(赤字は引用です)
| アシジの聖フランシスコの小さき花 (聖母文庫)
著者:石井 健吾 |
(石井健吾氏は、「著者」ではなく「訳者」です)
この本については、
先日紹介した
オ・エングルペール著 「アシジの聖フランシスコ」
に、
「かれらの生活をしるした「聖フランシスコの小さき花」は、全くまぎれもなく楽しい本である。
おそらくこの書物は、いかなる苦みもない世界文学の唯一の傑作かもしれない。」
と書いてあったので、買ってみました。
内容は、フランシスコと、その兄弟(肉親ではなく、仲間)達のエピソードです。
フランシスコの伝記ではありません。
童話のような、絵本を見ているような、話です。
狼を回心させたり、鳥に説教したり、兄弟を宙に浮かせたり…。
ともかく、彼らの、熱烈とも言える信仰心が伝わってきます。
ある意味、天然とも言えるかな…。
天然なだけに、彼らの言葉に嘘がなく、
はたから見ると馬鹿みたい(失礼)でも、
実はそこに真実の信仰があるのではないかと思いました。
だからこそ、この本が世界中の多くの人の心を掴んできたのでしょう。
一箇所引用します。(p186)
兄弟ペッレグリーノの場合、彼はすぐれた学者でローマ法に精通していたのに、司祭にはならず、その一生をふつうのように過ごしました。彼はその謙遜によって、完徳の上で非常な進歩をとげました(略)
こういう考え方もあるのですね。
能力のある人が自分を抑えるのは、きっと大変だろうと思います。
自分の能力に溺れて身を滅ぼす人はたくさんいますが。
収賄、偽装、詐欺、戦争…。
この本の成立については、
成立年、著者、原本の内容など、不明な点がかなりあるみたいです。
本の最後に解説が載っていますが、分かりにくかったです (-ε-)
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落書きがニュースになっています。
人間が、人間が作ったものに落書きをする。
そんなに問題ですか。
人間が、人間が作ったものに落書きしても、
人間が不快な思いをするだけです。
いや、さっきテレビで、鍾乳洞の内部にも落書きがありました…。
人間が作っていないものに落書きをするのは、してはならないことだと思います。
人間は人間の内側だけで、
ちまちま生きるべきだと思います。
ごめんなさい。
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お久しぶりです。
昨夜から雨が降り続き、
気持ちが良いです。
今日はこの本を紹介します。
以下、赤字は引用です。敬称略で失礼します。
「老いの意味-美わしい老年のために」
ポール・トゥルニエ著
山村嘉己訳
ヨルダン社
けっこう長い本でした。
断定的な言い方が少なく、慎重に書かれている分、文章が長くなっている、という気がしました。
老人向けに書かれた本というよりは、中年、若者へ書かれたものです。
老人になってからでは、老年期を迎える準備はできません。
全ての人にかならず訪れる老年期を、どう考えるのか、
それまでの仕事から引退する時に、どういう心理状態になるのか、
また、引退というできごとを、どう乗り越えるのか。
ということについて、書いてあります。
内容をまとめてみます。
・老年期には、専門職業的な労働から一般教養的な知識活動(第二の人生活動)への《態勢転換》をはからねばならない。
・そのためには、若いうちから、余暇などを通して、第二の人生活動への準備をするべきである。
・第二の人生活動は、完全に自発的なものであるべき。自由な人生活動である。
委任状もなければ、契約もなく、階級制もなければ、年齢制限もなく、しきたりも、義務的仕事に応じて定められた賃金もない。第二の人生活動は第二の職業ではない。また、余暇でもない。
・第二の人生活動へ移行するためには、現実を受け入れることが必要。いやいやではなく、自発的に受け入れること。
これだけではよく分からないと思いますが、
これ以上まとめるのが面倒なので
m(-_-)m
印象的だった部分を引用してお茶を濁します。
p208
人生における根本的な変化はどれでも、先ずその人間自身の内側から自然のままにわき出てくるものでなければなりません。
p288
人生はしとげねばならない仕事なのです。しかし、自分の仕事は終わった、もうしとげたのだといいうる人がほんとうにいるでしょうか。(略)わたしがここで問題にしようとしている受け入れは、だから、もっとも困難なものとなるのです。それは未完成な行為と仕事とを受け入れるということです。
p290
人生は生涯かけてこの限界と戦います。それが人生の本質なのです。
p294
われわれは一日一日すべて未完のままで少しづつ死んでいくのです。どんな仕事でもすべてはじめはあっても真の終りはありません。
p304
老年への準備は人生のいつにおいても積極的な姿勢をとることでなされていきます。つまり、人生の各階梯においてせい一ぱいに生きるということです。
p334
欲得づくの愛から寛やかな愛へ、精神分析学者のことばをかりれば、奪う愛から捧げる愛へ
p348
今後は、人間は自分のしたことによってではなく、自分の存在そのものによって、すなわち、彼の占めている地位やその肩書によってではなく、人間としての成熟度、心の広さ、内的生活、愛の輝き、つまりは世間に何をもたらすかということとは無関係の、内在的な価値によってのみ評価されるのです。
p353
自分の年齢に適した人生目的を見出し得ないために、ある時期自分に生きる意味を与えてくれたものに絶望的といっていいほどいつまでも執着する人がどんなに多いことでしょう。
引用ばかりでごめんなさい
m(_ _)m
著者はクリスチャンであり、神についての言及もあります。
クリスチャンであれば、この本はスムーズに受け入れられると思います。
が、クリスチャンではない人びとにとっても、いかにして老いを迎えるかと
いう心構えは同じように必要であり、
そのためにも、こういう本を読むことが役に立つと思いました。
ただ、少し冗長な気もしました。
図書館か古本でどうぞ![]()
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久しぶりに更新します。
暑くなってきて、なかなか更新できません。
本を読む気力がないからです。
今日はこの本を紹介します。
「アシジの聖フランシスコ」
オ・エングルベール著
平井篤子訳
創文社
赤字は引用、敬称略で失礼します。
かなりボリュームがありました。
過去の主なフランシスコ伝を元に、
伝記として編集されています。
小説というよりは資料集に近い伝記で、
全てのエピソードには注が付き、原典が明らかにされています。
年代や、事実の真偽についても、
著者の意見と同時に、論争についての参考文献が記載されており、
とても良心的な伝記だと思います。
特に新鮮だったのは、
フランシスコが生きている間に、
早くも修道会が彼の望まない方向へと進んでいった時の
彼の混乱、悩みがよく分かったことです。
そして、
神の声と共にその悩みが消え、平安が訪れた様子は感動的でした。
現代でさえも、哲学や奇弁で疲れきった、いかに多くの懐疑論者が、
フランシスコによって福音の真理に連れもどされたことだろう。
と著者は書いていますが、
まさにその通りで、懐疑的な僕の信仰心も、少し熱くなった気がします。
また、フランシスコの“清貧”が
あまり裕福とはいえない僕を慰めてくれました。
全てを失っても幸せでいれる人がいたことが、
というよりは、
全てを失うことを望んだ人がいたことが
慰めになります。
まだ聖書を読んだことがない方のために、
フランシスコと特にかかわりが深い聖書の箇所を引用しておきます。
(引用は新共同訳より)
マタイによる福音書 / 5章 40節
あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
マタイによる福音書 / 6章 26-27節
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
マタイによる福音書 / 10章 9-10節
帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。
旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。
マタイによる福音書 / 18章 3-4節
(イエスは)言われた。「はっきり言っておく。
心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。(略)」
もちろんこれが全てではありませんが、
これらの部分は、フランシスコの思いをよく表していると思います。
というより彼は、これらの聖書の文言を、そのまま実行しようとしていました。
すごい人です。あこがれます。
絶版だと思いますので、古本か図書館でどうぞ。
僕は他のものは読んだことがありませんが、
他の伝記でも十分感動があると思います。
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お久しぶりです。
ようやく「出エジプト記」を読み終えました。
とは言っても、ただ読んだだけです…。
浅読です。
エジプトから導き出された民が、牛の像を作ったときのこと…。
32章27節、
モーセは彼らに言った、
「こう、イスラエルの神ヤハウェが言った
『各自、剣を腰に帯びよ。宿営の中を端から端まで行きめぐれ、
そして自分の兄弟、友人、隣人を殺害せよ』」。
レビの子らは、モーセの言葉通りに行った。
その日に、民の中からおよそ三千人の男が〔剣に〕倒れた。
…怖いです。
「信仰が人を殺すとき」を思い出しました。
こういう部分を読むと、
新約聖書は、本当に“福音”、“良い知らせ”だなあ、と思います。
御子イエス・キリストとともに、愛が世界に与えられた。
敵をも愛する、愛が。
神は愛である(ヨハネの第一の手紙4:16)
と書いてあります。
クリスチャンであるということは、
神が愛であると、信じることでもあるのですね。
(引用=赤字は岩波書店版より)
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