青野太潮著「どう読むか、聖書」を読んで、“懐疑”から開放されました
今日はこの本を紹介します。
敬称略で失礼します。また、青字は引用です。
| どう読むか、聖書 (朝日選書)
著者:青野 太潮 |
一応最初に書いておきますが、
著者は、「平尾バプテスト教会協力牧師」です(1994年、第一刷発行当時)。
帯に、大きめの字で、
「聖書は絶対的なものではない」とありますが、信仰を否定する本ではありません。
また、著者は、岩波書店の新約聖書で、パウロ書簡の翻訳を担当しています。
●箇条書きによる要約をしてみます。引用以外は、僕なりのこの本の解釈です(あたりまえですが)。
・「神は、終始一貫、太初の昔から、この不信心な者を愛し、ゆるし、義とする神であり続けているのであり、その神をこそイエスはあかしし、パウロもまたそのとらえ方を継承したのである。(p44)」
・圧倒的に人を赦す神を、イエスは、十字架にかかるほどの圧倒的な弱さで、逆説的にあかしした。
・神は光、イエスは闇、と例えてみると…。
・光は常に輝いているが、闇の濃さによって、人の目に映る輝きは違う。
・イエスはその究極の闇(十字架)で、神の光を極限にまで輝かせた。
・そして今も十字架に架かったままでいる。
・私たちは、十字架に架かっているイエスを通じ、「この世の日常の現実のただ中に現臨している(p30)」神の光を最大限に浴びることができる。
・これらのことを、聖書は絶対的なものではなく、相対的なものである、という立場で、新約聖書のギリシャ語原典から、考察してあります。
●心に残ったことを箇条書きしてみます。
・イエスは私達の罪の贖いとして死んだのではなく、「弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである(コリント人への第二の手紙13章4節)(p208)」
・復活した「イエスに出会うということは、すなわち生前のイエスに出会うということ(p97)」。パウロは「内的体験(p111)」として復活者イエスに会い、回心した。
・「働き、あるいは機能としての神、あるいは「復活者」を考えることはできる。例えば、「ヨハネの第一の手紙」の4章8節は「神は愛である」と語るが、その愛は働きとしてたしかに存在しているが、目で見たり手でさわったりできるような実在ではないのである。(p112)」
・新約聖書の原典は、約5500のギリシア語写本、及び「ラテン語」や「シリア語、さらにコプト語などの写本(p251)」及び「教会教父たちが彼らの著作の中で引用している聖書本文(p252)」を「参考にして再構成(p251)」される。
・再構成された“原典”は、“校訂”されていく。つまり、新約聖書の原典は「日々刻々動いている(p253)」。
・「新約聖書の大もとの原典、つまりそもそもの第一資料たるべきものが、翻訳なのである。(p82)」「イエスの語ったアラム語がギリシア語に翻訳(p82)」されている。そして翻訳とは「解釈と同義なのである(p82)」。
僕はこの本を読んで、「いたずらな「懐疑」からの自由(p9)」を得ました。
例えば進化論を信じ、聖書の創世記を信じないのであれば、聖書に間違いがあることになります。創世記の部分だけを勝手に切り捨てて、進化論を信じたとすると、じゃあ聖書の他の部分は正しいのか、という懐疑が生まれてきます。
また例えば、10分の1献金について、もしそれを行わなくともいい、と解釈したとすると、他の部分も自分なりに解釈すればいいのか?という疑問が生まれます。
つまり、聖書の全てをそのまま信じるか、そうでなければ全てを否定するか、どちらかしかないような気がしていたのです。進化論を当然のこととして受け入れている僕にとっては、悩ましい問題でした。
そして、この本を読み、それは解決しました。
「キリスト教の福音そのものが、それ自身の教典の絶対的な無謬性を批判しつつ、同時に誤り多きところにこそ神のゆるしがある(p8)」ことを、この本ははっきりと教えてくれたからです。
読みたいことがここにあった、という喜びを感じ、続けて二回読みました。
二度目は線を引きながら、全てを理解するつもりで、舐めるように読みました。
読後、僕の信仰が変わりました。感謝します。
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