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2008年10月

青野太潮著「どう読むか、聖書」を読んで、“懐疑”から開放されました

今日はこの本を紹介します。
敬称略で失礼します。また、青字は引用です。

Book どう読むか、聖書 (朝日選書)

著者:青野 太潮
販売元:朝日新聞
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一応最初に書いておきますが、
著者は、「平尾バプテスト教会協力牧師」です(1994年、第一刷発行当時)。
帯に、大きめの字で、
聖書は絶対的なものではない」とありますが、信仰を否定する本ではありません。
また、著者は、岩波書店の新約聖書で、パウロ書簡の翻訳を担当しています。

●箇条書きによる要約をしてみます。引用以外は、僕なりのこの本の解釈です(あたりまえですが)。
・「神は、終始一貫、太初の昔から、この不信心な者を愛し、ゆるし、義とする神であり続けているのであり、その神をこそイエスはあかしし、パウロもまたそのとらえ方を継承したのである。(p44)」
・圧倒的に人を赦す神を、イエスは、十字架にかかるほどの圧倒的な弱さで、逆説的にあかしした。
・神は光、イエスは闇、と例えてみると…。
・光は常に輝いているが、闇の濃さによって、人の目に映る輝きは違う。
・イエスはその究極の闇(十字架)で、神の光を極限にまで輝かせた。
・そして今も十字架に架かったままでいる。
・私たちは、十字架に架かっているイエスを通じ、「この世の日常の現実のただ中に現臨している(p30)」神の光を最大限に浴びることができる。

・これらのことを、聖書は絶対的なものではなく、相対的なものである、という立場で、新約聖書のギリシャ語原典から、考察してあります。

●心に残ったことを箇条書きしてみます。
・イエスは私達の罪の贖いとして死んだのではなく、「弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである(コリント人への第二の手紙13章4節)(p208)」
・復活した「イエスに出会うということは、すなわち生前のイエスに出会うということ(p97)」。パウロは「内的体験(p111)」として復活者イエスに会い、回心した。
・「働き、あるいは機能としての神、あるいは「復活者」を考えることはできる。例えば、「ヨハネの第一の手紙」の4章8節は「神は愛である」と語るが、その愛は働きとしてたしかに存在しているが、目で見たり手でさわったりできるような実在ではないのである。(p112)」

・新約聖書の原典は、約5500のギリシア語写本、及び「ラテン語」や「シリア語、さらにコプト語などの写本(p251)」及び「教会教父たちが彼らの著作の中で引用している聖書本文(p252)」を「参考にして再構成(p251)」される。
・再構成された“原典”は、“校訂”されていく。つまり、新約聖書の原典は「日々刻々動いている(p253)」。
・「新約聖書の大もとの原典、つまりそもそもの第一資料たるべきものが、翻訳なのである。(p82)」「イエスの語ったアラム語がギリシア語に翻訳(p82)」されている。そして翻訳とは「解釈と同義なのである(p82)」。


僕はこの本を読んで、「いたずらな「懐疑」からの自由(p9)」を得ました。
例えば進化論を信じ、聖書の創世記を信じないのであれば、聖書に間違いがあることになります。創世記の部分だけを勝手に切り捨てて、進化論を信じたとすると、じゃあ聖書の他の部分は正しいのか、という懐疑が生まれてきます。
また例えば、10分の1献金について、もしそれを行わなくともいい、と解釈したとすると、他の部分も自分なりに解釈すればいいのか?という疑問が生まれます。
つまり、聖書の全てをそのまま信じるか、そうでなければ全てを否定するか、どちらかしかないような気がしていたのです。進化論を当然のこととして受け入れている僕にとっては、悩ましい問題でした。
そして、この本を読み、それは解決しました。
キリスト教の福音そのものが、それ自身の教典の絶対的な無謬性を批判しつつ、同時に誤り多きところにこそ神のゆるしがある(p8)」ことを、この本ははっきりと教えてくれたからです。
読みたいことがここにあった、という喜びを感じ、続けて二回読みました。
二度目は線を引きながら、全てを理解するつもりで、舐めるように読みました。

読後、僕の信仰が変わりました。感謝します。

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宮田光雄著「キリスト教と笑い」を読みました

こんばんは。今日は秋空でした。

今日はこの本を紹介します。
敬称略で失礼します。また、赤字は引用です。

キリスト教と笑い
宮田光雄著
岩波新書

この本には、笑いに関する用語がたくさん出てきます。
「風刺的なジョーク」「武器としての笑い」
「人を救う笑い」「開放としての笑い=ユーモア」
「人を楽しませる笑い=コミック」
「人を刺す笑い=ウィット」「破壊的なジョーク」
「優雅で魅力的なアイロニー」
「アイロニカルなユーモア」
「論争的アイロニー」
「自己アイロニー」
…そして、何がなにやらよく分からなくなりました。

難点がいくつかあると思います。
①他の学者からの用語の引用が多く、読む方が混乱してしまうこと。
②ヨナ記についての章では、あまり笑いと関係がないと思われる「文化人類学的考察」や、「精神分析学的解釈」へ話が逸れてしまうこと。
③新約聖書からの、ユーモアの例としてあげられている部分に、あまりユーモアを感じることができなかったこと。
④著者は、ユーモアについて書きたいのか、笑いについて書きたいのか、よく分からなくなること。

分からないままにまとめてみると…。
①キリスト教(神にも、イエスにも、信者にも)にはユーモアがある。
②そのユーモアとは、「人を救う笑い」である。
「人を救う笑い」とは何かというと、
「様々の緊張や不安、挫折感や罪悪感から自由に生きることができるようにするもの」である。
このことを、ヨナ記、イエス、パウロ、ルター、カール・バルト、その他の例をあげて説いているのだと思います。
ルターやバルト、教皇ヨハネス23世のユーモアの例は、とても面白かった。

また、以下の文章が、この本の内容をよく表していると思います。
「キリスト教的希望は、将来の都《天なるエルサレム》を目指して生きるゆえに、過ぎ去りゆくこの世の都を笑って眺めることができる」
「原始キリスト教の人びとにあったユーモアの精神は、終末論的状況にもかかわらずというより、まさにそのゆえに強かったといわねばならない。」
「世俗化された終末論的な生き方、それがユーモアなのである。」

自分が生きている“この世”から一歩引いて、
自分を客観的に見る態度が、
聖書、キリスト教にあり、その態度が、
ユーモアという形で表れている、ということなのでしょう。

「第8刷への追記」によると、
「本書にとりあげた《キリスト教と笑い》の精神史は、その後、いっそう読みやすくして小著『開放の福音』(『聖書の信仰』第Ⅵ巻、岩波書店、1996年、所収)として書き改めました。」
とあるので、興味がある方は、
そちらを読んだ方が、より良いと思います。

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「聖ベネディクトの戒律」を読みました

今日はこの本を紹介します。
敬称略で失礼します。また、赤字青字は引用です。


ポケット版 聖ベネディクトの戒律 Book ポケット版 聖ベネディクトの戒律

販売元:ドンボスコ社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

聖ベネディクトは、「六世紀イタリアの修道院長」
「その彼が当時の修道士たちのために書いた生活の指針が、この戒律です」

例えば第4章『善いおこないのための道具について』では、
「1 まず、心を尽くし、霊を尽くし、力を尽くして主である神を愛すること」
からはじまり、
「14 貧しい人たちに食事をあたえること。15 裸の者に衣服をあたえること。」
「37 眠りをむさぼらないこと。38 怠慢でないこと。39 不平を言わないこと。」
「74 そして、神の慈悲に対して決して望みを失わないこと。」

まで延々と、あるべき態度が述べられています。

他にも、
「第10章 夏期における夜間の賛美の唱え方について」
「第22章 修道士の睡眠について」
「第35章 厨房の週間担当者について」
「第43章 「神の業」あるいは食事に遅刻した者について」
等々、多くの決まりごとがあります。

以前紹介した、
「修道院」今野國雄著
によると、聖ベネディクトの会則(戒律)は、
「オリエントやアイルランド系の修道院のように徒らに厳格で孤高な修行を要求せず、修道生活の全体を中庸の精神で一貫」している、
とあります。
つまり、そんなに厳しくないからこそ、
「広く西ヨーロッパの修道院で用いられるようになった」
とのこと。
実際、戒律の最後(第73章)に、
「初心者のために記したこの最も控えめな戒律」と書いてあります。

“控えめ”とはいっても、これは共住修道士向きに書かれた本であり、
僕達がそれを実行することは困難です。
それでも、ここに書かれているキリスト教の精神は、魅力的です。

例えば、徹底的な謙遜、絶対的な服従。
自分は特別な何者かであるはず、またそうならなければならない、
と思って生きていた僕自身、キリスト教を知ったことで、
“謙遜”や“服従”を美徳として強く意識するようになりました。
実行できてはいませんが…。

戒律ではありますが、
しかも明らかに自分と関係ない戒律もありますが、
読んでいると、不思議と癒されます。
ここにある価値観に、安心するのかもしれません。

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「同情の心-シリアの聖イサクによる黙想の60日-」を読みました

お久しぶりです。
本を読んでいなかったので、更新ができませんでした。
今日はこの本を紹介します。
敬称略で失礼します。また、赤字は引用です。

「同情の心-シリアの聖イサクによる黙想の60日-」
A.M.オーチン編/S.ブロック英訳
梶原史朗訳
聖公会出版



序文によると、シリアの聖イサク(ニネベの聖イサク)は、
「七世紀前半のある年に、ペルシア湾西岸のカタールに生まれた」人です。
660年代にニネベの主教になったが
「わずか五か月で主教としての公の生活から引退し、修道生活の沈黙へと帰って行った」。
その中で著作が行われました。
聖イサクは、ネストリオス派であり、
「カルケドン派(いわゆるギリシア正教会とローマ・カトリック教会全体を含む-訳注)、単性論派」
とは、分裂していましたが、
「彼(聖イサク)の著作についての驚くべき事実の一つは、その著作がこれら三つのキリスト教グループのすべての人々によって、翻訳され、また(まことにわずかな修正を伴いつつ)用いられてきた、ということである」
とあります。
聖イサクは、「教理に関する熱烈な議論の危険性」を語り、
「精霊と愛と謙遜とに満ちた平安」を語ります。

この本は60の章に分けられ、それぞれ題が付いています。
例えば
「1 はっきりと祈れ
 2 信仰が見るもの
 3 悔い改めという賜物
 4 幸いなる謙遜」

という風に。


3箇所、引用させていただきます。読みにくいので黒字で引用します。


「10 十字架の道」の一部。

災害があなたの上に臨む時、打ち沈んだり、これは神の道とは違うと考えてはならない。

なぜなら、神のこの小路は、すべての時代と世代を通じて、十字架と死という仕方によって、歩まれてきた道であるからである。

この道の上に起こる災難はこの道に属してはいない、という考えをあなたはどこから得たのか。あなたは聖人たちの足跡を歩みたいと思わないのか。
あなたは、苦難を含まない、あなた自身の何か他の特別な道を通りたいのか。

神の道は日々の十字架である。誰も安易な道を通って天に昇った人はいない。私たちは安易な道がどこに通じているかを知っている。


「24 祈りへの応答」の一部。

神がもしあなたの願いをかなえるのにゆっくりであり、あなたが速やかに得たいと願うものが与えられなくても、悲しみ嘆いてはならない。あなたは神よりも賢くはないからである。


「37 神のいつくしみ」の一部。

すべての肉の体の罪は神のみ心に比べるなら、大海の中に投げ入れられた一すくいの砂のようなものである。


この他にも、心に残ることばがたくさんあります。
僕は一回通して読んだあと、昼休みに適当に開いて読んでいました。
たまに難しく感じる部分もありますが、ゆっくり読むには、ちょうどいい感じです。
すぐに分かる部分と、読むうちに分かってくる部分もあって、味わい深いです。
まあ、こういう本はたくさん出ているし、
この本でなければならない、ということはないかもしれません。
それでも、時代を超えて生き残ってきた言葉だけに、重みを感じました。

Amazonでは新刊はないみたいですが、
聖公会出版のHPにはあるので、絶版ではないと思います。

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