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2009年2月

日記(受精卵移植ミスによる中絶の件)

先日、
誤って別人の受精卵が移植さたため、人工妊娠中絶した、
というニュース
がありました。

当事者の方々には
深い苦しみや葛藤があることと思います。
この件について、
当事者ではない僕が書くことは、
適切ではないかもしれません。
一方、生命倫理の問題は、
広く議論されるべきことだと思うので、
書くことにしました。


僕はこのニュースを聞いて、背筋が寒くなりました。
テレビで知ったのですが、驚きで体が止まった。

中絶の是非はともかく、
体外受精そのものに、僕は反対です。
人類以前、地球上の全ての生物は自然選択を経て、生まれてきた。
小賢しい人類だけが、生命誕生をコントロールしようとしている。
体外受精に限らず、人工授精には反対です。

ただ、
体外授精には反対ですが、
それによってできた受精卵は、
命として扱われなければならない、と思う。
体外授精による受精卵に、
当事者(医者、患者)は責任を持つべきです。
他人の受精卵だったからと言って、
中絶することが許されるのだろうか?
仮に、受精卵が本人のものだった場合、
それに遺伝子的な異常が見つかったら、
同じように中絶が許されるのだろうか?
中絶の可否の線はどこに引かれるのでしょうか?
体外授精卵には人間が責任を持つべきであり、
責任を持てずに中絶する=殺すのなら、
体外受精、人工授精をするべきではない、と思います。

確かに、
望んでも子供ができないことは、とても辛いです。
例えば、
「お子さんはいるの?」
「子供はまだ?」
「子供は作らないの?」
「若いうちに子供を産んだほうが良いよ」
「子供がいない人には、親の愛は絶対に分からない」
こういう言葉に、胸が苦しくなります。
年賀状は、友達ではなく、その子供の写真ばかり。
金は払ってやるから不妊治療を受けろ、という親。
妊婦であふれている産科の待合室。
産科医の冷たい言葉。
痛く、辛い治療。
テレビや広告で見る親子の写真全てに、
子供がいない自分を否定されているような気になる。
被害妄想を経て、
次に自己嫌悪になります。

不妊に悩む僕達に必要なのは、
人工授精の技術ではなく、
子供がいてもいなくても、
一人の人間として認められる社会だと思います。
不妊に限らず、
独身でも、
また、身体障害、知的障害を持つ人でも、
異なる人種、出身地、職業、宗教でも、
すべての違いを含めて、
すべてが人間なんだという、
おおらかな社会であって欲しい、と思います。

よく、
「健康ならば男の子でも女の子でもどっちでもいい」
という言葉を耳にします。
しかし、健康でなくても、
人間であることに変わりはないし、
生きてることにも変わりはない。
そこにある命を、
あたりまえに受け入れることができるようになりたい、と思います。

今回の件では、
多くの方々が傷つき、苦悩されていると思います。
こういうことが二度と起こらないように、
この件が礎となることを願います。
また、隠さずに公表した医師に敬意を表したいと思います。

そして、
中絶された受精卵が、イエスに抱かれていますように。







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日記(ドンマイ!中川前財務相)

先日の中川氏の“もうろう記者会見”についてです。

彼に同情します。
ああいう感じって、心当たりがあります。
朦朧としてても、仕事をしなくてはならない、
という辛さ、記憶にあります。
朦朧としすぎて、
やめようとか、誰かに代わってもらうとか、
そういうことすら思いつけなくなります。
配達の仕事をしていた時、
代わりがおらず、
高熱のまま配達に行ったことを思い出しました。

中川氏のもうろう会見が、仮に酒のせいだとしても、
責める気にはなれません。
事務職として働いていた会社にも、
愛すべき酔っ払いはいました。
仕事が出来て面倒見もいい先輩社員が、
たまに真っ赤な顔して二日酔いで出社してきましたが、
特に嫌だとは思いませんでした。
僕自身も、二日酔いで出社したことがあります。
それにしても、
本人が体調不良のせいだと言ってるんだから、
まずは体調を心配するのが筋だと思います。

G7がどれだけすごい会議なのか僕は知りませんが、
多分そんなにたいしたことはないんじゃないですか。
たったの七カ国でどれだけのことが決められるのか、疑問です。
以前からG7はあったのでしょうが、
今回の世界的不況は起きているのですから。
日本の財務相が、少々朦朧としてても、大勢に影響はないでしょう。

なぜあんなにバッシングされるのか、不思議です。
僕は、中川氏の政策とか思想は全く知りませんが、
少なくとも、あの会見で辞任するのは、
かわいそうだったと思います。

ドンマイ!中川さんgood

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ミッチ・アルボム「モリー先生との火曜日」を読みました

普及版 モリー先生との火曜日 Book 普及版 モリー先生との火曜日

著者:ミッチ・アルボム
販売元:NHK出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する


妻が押入れから引っ張り出して読んでいたのを、
僕も再読しました。
日本初版からすでに10年が経つんですね。
いまさらかもしれませんが、紹介します。
青字は引用です。

難病(筋萎縮性側索硬化症=ALS)にかかり、
死期が近いことを確信しているモリー先生。
大学時代、モリー先生(社会学)に指導を受け、
卒業後はスポーツジャーナリストとして
猛烈に働いてきた著者ミッチ・アルボム。
モリー先生がテレビに取り上げられたことで、
交流が再開し、火曜日ごとに話をした、
その話の内容をまとめたものです。

この本の面白いところは、
著者(当時37歳)自身の、
何かに追いたてられるかのような、
仕事漬の生活に対する内省が、
同時に語られていることだと思います。
学生の頃は
金持ちは悪者、ワイシャツにネクタイは囚人の服、自由のない人生はろくな人生じゃないと思っていた。さっとバイクにまたがって、顔に風を受け、パリの街やチベットの山の中をすっとばしたいと思っていた。何があったのか?(p38)」
かつては、絶対にかねのためには働くまいと心に誓ったこともある。それから、平和部隊に加わろうとか、美しい、霊感を沸きたたせるような場所に住もうとか。
にもかかわらず、デトロイトに住んでもう十年になる。仕事場も同じ、銀行も同じ、髪を切るのも同じ店。歳は三十七歳。大学時代よりはてきぱきと働けて、コンピューターやモデム、携帯電話から離れられなくなっている。金持ちのスポーツマンの記事を書く。 (略) 毎日毎日時間はふさがっている。しかし、その多くに満ち足りた気持ちはない。
(p39)」

モリー先生との再開を通して、
仕事漬の時代を終わらせ、
大切なものを再確認していく
著者の心が、さわやかでした。

機械につながれて生きることを選ばなかった
モリー先生の言葉は、本当に重い。
死を確信しているが故の、
かけがえのない、大切な瞬間。
それがそのまま、
今の自分にも流れている時間だということに
気づかされます。

でもたぶん、この感動も、
すぐに忘れてしまいます…。
再読だったのに新鮮だったから…。

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フランソワ・ボワイエ「禁じられた遊び」を読みました

禁じられた遊び
フランソワ・ボワイエ著
花輪莞爾訳
角川文庫

第二次世界大戦下、
ドイツ軍の空襲から逃れる人の群れのなかで、
お父さんの死体を見た、9歳の少女ポーレット。

街道から外れ、
偶然近くの農村で拾われたポーレットは、
村の少年ミッシェルと共に、
死んだ動物達の墓に建てようと、
村中の十字架を集める。

憂鬱な物語です。
ドイツ軍の機銃掃射。
逃げる人たちの血に染まった街道。
そんな時でもいがみ合う大人たち…。

うんざりする閉塞感。
この物語は、一体何を訴えたいのだろう?
虚しさばかり感じました。

そして、
坂口安吾の『白痴』を思い出しました。
手元にないのでうろ覚えですが…。
戦時下、空襲の炎の中で、
不幸、悲惨の極限で感じる、倒錯した幸福。
もうこれ以上失うものはない生活。
すべてが剥き出しになって、駆け引きをする必要がない。
純粋な人間が、そこにあり、それは必ず肯定される。
あるいは、同じく安吾の
『桜の森の満開の下』に描かれた静謐な凄惨を思い出します。
禁じられた遊びとは、
十字架を集めることではなく、
死んだ犬で遊ぶことを指しているのではないか?

『白痴』の女、
『桜の森の満開の下』の鬼、
そして『禁じられた遊び』のポーレットが重なりました。

うまく言えませんが、
存在の虚しさ、
現実の気味悪さ、
みたいなものが描かれている気がします。

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金子晴勇「宗教改革の精神 - ルターとエラスムスの思想対決」を読みました

宗教改革の精神 - ルターとエラスムスの思想対決
金子晴勇 著
講談社学術文庫

青字は引用です。敬称略で失礼します。

穏健でリベラル」な「国際的知識人」として名を馳せたエラスムス(p14)。
信仰の勇気をふりしぼって教権に屈することなく戦った(p58)」ルター。
二人の自由意思論争をとおして宗教改革の精神を解明する。

僕自身が理解した内容を、大雑把にまとめてみます。

【エラスムス】
人間の自由意思を信頼する。
現実の生活が罪深いものだとしても、人間は自ら、善悪を選択している。
自分次第で、善を選択することができる。
人間は、自分で自分を律する(自律する)ことができる。
自己を確立すること」は「最善のこと」(p115)。
神は人間を援助する立場であり、
「(主体である)自由意志に共働する恩恵(p149)」として働く。

エラスムスの段階ではまだ
神中心のヒューマニズム」だが、後に、
人間中心の近代的ヒューマニズム」があらわれ、現代の
人間を神とみたてる」「無神論的ヒューマニズム」にまで繋がっていく(p75)。

【ルター】
人間に自由意思はあるが、現実的に、それは罪とともにある。
自由意思は、神を排除する、自己中心主義と重なっている。
自己を確立し自由を主張することはエゴイズム(p116)」であり
自己のみに固執する高慢(p114)」という罪である。

罪と深く結びついている自由意思を捨て、
神の奴隷となることで、「罪の『奴隷』から開放される(p116)」こと、
それが、「キリスト者の自由」である。
自らを捨てて、罪から自由となったキリスト者は、
『僕』として愛の奉仕に生きる(p116)」。
エラスムスとは逆に、ルターは、
神の「恩恵に共働する人間を説いている。行為する主体はもはや自由意志ではなく、神の恩恵である(p149)」。

信仰によって現実を生きることから、
『世俗的職業こそ召命にもとづく使命である』という職業観が生まれ、近代社会の形成に大きな役割を果たしたプロテスタンティズムの職業倫理が形成(p45)」されていく。

つまり、
エラスムスは自由意思を信頼、肯定した。
ルターは自由意思が罪と共にあるとして、否定する。
ルターは、自己の自由を神に委ねて、信仰により罪から開放されよ、と言う。


…この辺でやめておきます。
もっとたくさんのことが書いてあるような気もしますが…。

この本の原本は1977年刊行。文庫本の初版は2001年です。
地球温暖化に加えて、
世界経済、日本経済が大変なことになっている今、
無神論的ヒューマニズム、
単なる自己肯定の行き着く先は
人間の自己破壊である、
というこの本に、考えさせられました。

ここでは触れませんでしたが、
ドストエフスキーは、
ルターと共通する「良心」を「知っている」として、
かなり紙数が割かれています。
ドストエフスキーが売れている現象を理解する
鍵となるかもしれません。

最後に、結びの文章に
とても現代的なものを感じたので、引用します。
宗教改革の現世肯定はルネサンス的享楽のためではなく、神の栄光をあらわす実践に向かうゆえに、それは禁欲的職業活動としてあらわれている。宗教改革の社会的生産力はここに発揮されてくるが、宗教のもつ文化を創造する力を、文化を滅ぼす力が満ちている現在、もう一度想起する必要があろう(p230)」

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