小説以外(国内)

本田哲郎「釜ヶ崎と福音」

今日はこの本を紹介します。
青字は引用です。

釜ケ崎と福音―神は貧しく小さくされた者と共に Book 釜ケ崎と福音―神は貧しく小さくされた者と共に

著者:本田 哲郎
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する


著者は大阪の釜ヶ崎で、
ホームレスの仕事と生活を「制度として獲得」するための活動をしています。
フランシスコ会日本管区の、元管区長であり、
新約聖書の翻訳も出版されています。

神は貧しく小さくされた者と共に(副題)」おられる、
ホームレスの労働者を通して神は働かれる、と著者は言う。
私たちが彼ら(ホームレスの人びと)を助けるのではなく、
彼らが、私たちを助けるのだと。
私たちがすべきことは、
貧しく小さくされた人びとを哀れむことではなく、
自分が彼らのように貧しくなることでもない。
彼らと連帯し、行政による施策を求めて実際に行動することこそが、
福音を広めることなのだ。
そのことを、聖書からも確認します。

実際に、行動に移すことの大切さを考えさせられました。
行動を起すことは、本当に難しい。
信仰とは、イエス・キリストが身をもって告げた福音に、信頼してあゆみを起すこと」であり、
やってみて、できたところまでが自分の信仰なのだと、イエスは示唆しているように思います。(p229)」
という結びの一文に、ドキッとしました。
著者は行動を求めます。
僕にとっては、それが新鮮でした。

ただし、違和感もありました。
著者が、自分は貧しく小さい側ではない、という立場から発言している点です。
わたしたちは、自分が貧しくも小さくもされてはいない者であることをわきまえ、(p177)」
貧しく小さくされている彼らと連帯して行動を(p177)」起せ、
とあるように、
読者は貧しくも小さくもない側の人間だ、という前提があります。
この本は、
自分は裕福であり、また、良いクリスチャンだ、
と思っている人向けに書かれた本だと思いました。
そういう意味では、僕向きではなかったです。

それでも、特に第Ⅲ部は、
実際に行動する時の心構えとして、
とてもためになると思います。

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荒井献「問いかけるイエス」を読んで、新約聖書にダイブする

また雪が降っていますsnow
今日はこの本を紹介します。

「問いかけるイエス」
荒井献著
NHK出版

敬称略で失礼します。また、青字は引用です。

初めて新約聖書を読んだ時、
何回同じような話が繰り返されるんだ?
と、うんざりした記憶があります。
その同じような話、「福音書」は、4回繰り返されます。
はじめの三つは特に共通部分が多いため、
「共観福音書」と呼ばれます。

この本では、その「共観福音書」から26箇所選び、読み解きます。
その際、その「「言葉」をどのレベルで読むのか(p18)」が重要になる。
つまり、ある「言葉」が、
福音書が成立する前から流布していた
伝承あるいは資料」に由来するのか、
あるいは、「伝承あるいは資料」を素材にして、福音書記者が
編集」したものなのか、
ということを見極めることが、重要になるのです。
その時、「福音書」が
一つではなく四つあることが、
とても助けになります。
四つの福音書を見比べていくことで、
驚くほどいろんなことが分かるのですね。
だてに四つではないんだな、と思いました。

慎重に、「編集」部分を
本文から削いでいくと、
イエスが実際に息をしていた時代の風景が現れてきます。
「編集」部分を削いでいく作業は、
とても細かく慎重なもので、
僕のような素人には少し難しい。
しかし、その作業(するのは著者ですが…)にも慣れてくると、
段々、福音書にダイブしている感覚になってきます。
ルカやマタイ、マルコ福音書に深く潜り、
最後にイエスがいるガリラヤに降り立つ、
そんな浮遊感のある本でした。

この本はNHKラジオでの放送用テキストが元になっており、
クリスチャンというよりは、「広く一般の人」向けの本です。
福音書を「古典」として読み解いた上で、
それが現代人にどういう意味を持つのか、
に焦点が当てられています。
共感福音書中の「言葉」について、
深く、遠い過去へと遡り、
最後に姿を現した、イエス本来の言動が、
現代の僕に、強く響いてきました。

内容をここでまとめることはしません(出来ません)が、
中でも特に印象に残ったのは、
第24講「彼女を記念して」-ベタニアの女の油注ぎ マルコ14:3-9(p310)」でした。
イエスの受難・復活物語は、「ベタニアの女」の物語ではじまって、十字架の下に立つ女たち、とりわけイエス復活の最初の証人となる女たちの物語で終わる。-「光は暗闇の中で輝いている(ヨハネ1:5)(p323)」
女性に対する扱いを、
新約聖書から読み取るには、
この本のような「編集史的研究」が
欠かせないのではないか、と思います。

知的刺激に富み、信仰の助けにもなる
素晴らしい本でした。
ちなみに著者の奥様は、牧師だそうです。


著者の名前“献”は、“ささぐ”と読むんですね。
いい名前。
ついでに書くと、著者と共に
岩波版「新約聖書」の訳者である、
佐藤研の“研”は“みがく”です。
うまいこと名前を付けられたなあ。

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中野孝次「清貧の思想」を読みました

清貧の思想 (文春文庫) Book 清貧の思想 (文春文庫)

著者:中野 孝次
販売元:文藝春秋
Amazon.co.jpで詳細を確認する

青字は引用です。
日本の伝統には、「清貧を尊ぶ」という「一側面」があり、
それこそが「日本分化の精髄」である、と著者は言う。(p4)

地位、富、権力への欲望を捨てて、
厳しくも美しい自然に身を任せ、それをよしとする生き方です。

あまり目新しいという内容ではありません。
もちろん「目新しさがない」というのは、
今だから言えることであり、
出版された1992年秋は、新鮮だったのだと思います。
解説によると、出版当時、
日本社会はバブルという名の陶酔現象から覚醒を迫られ、以後の長い混迷と苦難への途次にあった。(p257)」
とあります。
日本経済が失速した先が
みじめな世界になるか、豊かな世界になるかは、
実はそれぞれの心次第なのだ、
というこの本に勇気付けられた人も多かったことでしょう。

ただ、
この本には、俳句、和歌、詩が数多く出てきて、
僕のように古文が苦手な人にはとっつきにくい。
清貧についての本なのか、
俳句や和歌についての本なのか、
時々分からなくなりました。
著者の言う清貧には、知性が要求される気がして、
自分にはどうも難しく見えてきます。
著者の知的常識、文学的教養と、僕のそれとでは、
残念ながらかなり差があるみたいです…。

はじめから、清貧についてというよりは、
和歌や俳句についての本として読んだ方がいいかもしれません。

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新約聖書翻訳委員会編「聖書を読む-新約篇-」を読みました

こんばんは。

今日はこの本を紹介します。

敬称略で失礼します。青字は引用です。

聖書を読む 新約篇 Book 聖書を読む 新約篇

販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

188ページで2,730円。ページ単価15円…安くはないです。

 

「はしがき」によるとこの本は、

翻訳作業の後に行なった「落ち穂拾い」の集積である。翻訳の際には十分展開できなかった思考や、翻訳終了後に明白になった観察や、作業を今反省して改めて浮上する問題意識などが展開されている」とあります。

 

岩波版「新約聖書」の翻訳者のうち、

(なぜか)一人を除いた6人が、

基本的には自分が担当した部分について、

問題と思われる部分について解説、考察しています。

それぞれ約20ページ程です。

 

また、巻末に、「異読・転釈解説集」があり、

興味深い「異読」および問題の多い翻訳の箇所を例示して論じ」ています。

 

 

論文の中にはかなり難しいものもありましたが、興味深く読みました。

 

例えば、「バプテスマ(baptisma)」について。

この語の「根源にある表象(p2)」は、

水に全身沈められ(やがて死に至らしめられ)る(p2)」であり、

詩篇69章3節に見られるような、「破滅的溺死のイメージ(p3)」です。

そのイメージで、マルコ福音書10章38節、ルカ福音書12章50節を読むと、

原文のもつ非業の最期を暗示する側面は、鮮明に浮き上がる。これらの箇所においては、いわゆる「洗礼」の話では全くない(p7)」ということになります。

ちなみに岩波版「新約聖書」では、「浸礼」と訳されています。

 

「はしがき」に、

新約聖書とは、総体としてはキリスト教が確立するよりも古く、その中にはキリスト教の伝統観念をも切り崩すほどのベクトルが潜んでいる」とあります。

「伝統観念」を除いた、本来のキリスト教を、僕も知りたいです。

 

また、すでに「新約聖書」そのものにも、「偽名で書かれた手紙」があり、

パウロ本人の思想と、パウロの名を借りた著者の思想とでは、

完全に一致しているわけではありません。

そのことを意識すると、今までとは違う内容が見えてきます。


ギリシャ語を知らない僕には、

この本の内容が正しいかどうか

検証することはもちろん出来ませんが、

岩波版「新約聖書」をより深く理解するためには、

読んでおいて損はない本だと思いました。

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青野太潮著「どう読むか、聖書」を読んで、“懐疑”から開放されました

今日はこの本を紹介します。
敬称略で失礼します。また、青字は引用です。

Book どう読むか、聖書 (朝日選書)

著者:青野 太潮
販売元:朝日新聞
Amazon.co.jpで詳細を確認する

一応最初に書いておきますが、
著者は、「平尾バプテスト教会協力牧師」です(1994年、第一刷発行当時)。
帯に、大きめの字で、
聖書は絶対的なものではない」とありますが、信仰を否定する本ではありません。
また、著者は、岩波書店の新約聖書で、パウロ書簡の翻訳を担当しています。

●箇条書きによる要約をしてみます。引用以外は、僕なりのこの本の解釈です(あたりまえですが)。
・「神は、終始一貫、太初の昔から、この不信心な者を愛し、ゆるし、義とする神であり続けているのであり、その神をこそイエスはあかしし、パウロもまたそのとらえ方を継承したのである。(p44)」
・圧倒的に人を赦す神を、イエスは、十字架にかかるほどの圧倒的な弱さで、逆説的にあかしした。
・神は光、イエスは闇、と例えてみると…。
・光は常に輝いているが、闇の濃さによって、人の目に映る輝きは違う。
・イエスはその究極の闇(十字架)で、神の光を極限にまで輝かせた。
・そして今も十字架に架かったままでいる。
・私たちは、十字架に架かっているイエスを通じ、「この世の日常の現実のただ中に現臨している(p30)」神の光を最大限に浴びることができる。

・これらのことを、聖書は絶対的なものではなく、相対的なものである、という立場で、新約聖書のギリシャ語原典から、考察してあります。

●心に残ったことを箇条書きしてみます。
・イエスは私達の罪の贖いとして死んだのではなく、「弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである(コリント人への第二の手紙13章4節)(p208)」
・復活した「イエスに出会うということは、すなわち生前のイエスに出会うということ(p97)」。パウロは「内的体験(p111)」として復活者イエスに会い、回心した。
・「働き、あるいは機能としての神、あるいは「復活者」を考えることはできる。例えば、「ヨハネの第一の手紙」の4章8節は「神は愛である」と語るが、その愛は働きとしてたしかに存在しているが、目で見たり手でさわったりできるような実在ではないのである。(p112)」

・新約聖書の原典は、約5500のギリシア語写本、及び「ラテン語」や「シリア語、さらにコプト語などの写本(p251)」及び「教会教父たちが彼らの著作の中で引用している聖書本文(p252)」を「参考にして再構成(p251)」される。
・再構成された“原典”は、“校訂”されていく。つまり、新約聖書の原典は「日々刻々動いている(p253)」。
・「新約聖書の大もとの原典、つまりそもそもの第一資料たるべきものが、翻訳なのである。(p82)」「イエスの語ったアラム語がギリシア語に翻訳(p82)」されている。そして翻訳とは「解釈と同義なのである(p82)」。


僕はこの本を読んで、「いたずらな「懐疑」からの自由(p9)」を得ました。
例えば進化論を信じ、聖書の創世記を信じないのであれば、聖書に間違いがあることになります。創世記の部分だけを勝手に切り捨てて、進化論を信じたとすると、じゃあ聖書の他の部分は正しいのか、という懐疑が生まれてきます。
また例えば、10分の1献金について、もしそれを行わなくともいい、と解釈したとすると、他の部分も自分なりに解釈すればいいのか?という疑問が生まれます。
つまり、聖書の全てをそのまま信じるか、そうでなければ全てを否定するか、どちらかしかないような気がしていたのです。進化論を当然のこととして受け入れている僕にとっては、悩ましい問題でした。
そして、この本を読み、それは解決しました。
キリスト教の福音そのものが、それ自身の教典の絶対的な無謬性を批判しつつ、同時に誤り多きところにこそ神のゆるしがある(p8)」ことを、この本ははっきりと教えてくれたからです。
読みたいことがここにあった、という喜びを感じ、続けて二回読みました。
二度目は線を引きながら、全てを理解するつもりで、舐めるように読みました。

読後、僕の信仰が変わりました。感謝します。

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宮田光雄著「キリスト教と笑い」を読みました

こんばんは。今日は秋空でした。

今日はこの本を紹介します。
敬称略で失礼します。また、赤字は引用です。

キリスト教と笑い
宮田光雄著
岩波新書

この本には、笑いに関する用語がたくさん出てきます。
「風刺的なジョーク」「武器としての笑い」
「人を救う笑い」「開放としての笑い=ユーモア」
「人を楽しませる笑い=コミック」
「人を刺す笑い=ウィット」「破壊的なジョーク」
「優雅で魅力的なアイロニー」
「アイロニカルなユーモア」
「論争的アイロニー」
「自己アイロニー」
…そして、何がなにやらよく分からなくなりました。

難点がいくつかあると思います。
①他の学者からの用語の引用が多く、読む方が混乱してしまうこと。
②ヨナ記についての章では、あまり笑いと関係がないと思われる「文化人類学的考察」や、「精神分析学的解釈」へ話が逸れてしまうこと。
③新約聖書からの、ユーモアの例としてあげられている部分に、あまりユーモアを感じることができなかったこと。
④著者は、ユーモアについて書きたいのか、笑いについて書きたいのか、よく分からなくなること。

分からないままにまとめてみると…。
①キリスト教(神にも、イエスにも、信者にも)にはユーモアがある。
②そのユーモアとは、「人を救う笑い」である。
「人を救う笑い」とは何かというと、
「様々の緊張や不安、挫折感や罪悪感から自由に生きることができるようにするもの」である。
このことを、ヨナ記、イエス、パウロ、ルター、カール・バルト、その他の例をあげて説いているのだと思います。
ルターやバルト、教皇ヨハネス23世のユーモアの例は、とても面白かった。

また、以下の文章が、この本の内容をよく表していると思います。
「キリスト教的希望は、将来の都《天なるエルサレム》を目指して生きるゆえに、過ぎ去りゆくこの世の都を笑って眺めることができる」
「原始キリスト教の人びとにあったユーモアの精神は、終末論的状況にもかかわらずというより、まさにそのゆえに強かったといわねばならない。」
「世俗化された終末論的な生き方、それがユーモアなのである。」

自分が生きている“この世”から一歩引いて、
自分を客観的に見る態度が、
聖書、キリスト教にあり、その態度が、
ユーモアという形で表れている、ということなのでしょう。

「第8刷への追記」によると、
「本書にとりあげた《キリスト教と笑い》の精神史は、その後、いっそう読みやすくして小著『開放の福音』(『聖書の信仰』第Ⅵ巻、岩波書店、1996年、所収)として書き改めました。」
とあるので、興味がある方は、
そちらを読んだ方が、より良いと思います。

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「聖母の騎士」から

先日長崎に行ったとき、
大浦天主堂(だったと思う)で
「聖母の騎士」(聖母の騎士社発行)
という冊子(7月号)をいただきました。

その中の、

ルイス・カンガス(敬称略)
『イエス・キリスト伝-山上の説教(3)』

という記事に、こんなことが書いてありました(以下、赤字は引用です)。

赦すことは感情の問題ではない、理性と意思の問題でしょう。ユダヤ人はイエスを妬んで殺しました。イエスは彼らに対して心の痛みを感じながらも、彼らを赦した、そして彼らが立ち直って天国に入れるように祈った。
(略)
「敵を愛しなさい」ということは、単に憎しみを感じてないと言うことではなく、憎しみを感じても、乗り越えてその人と挨拶し、その人の成功のために祈る時、その人を赦したことになります。

憎しみを感じながらも、赦そうとする意思が、
平和を作っていくのかな、と思いました。


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佐藤初女「おむすびの祈り」を読みました

こんにちは。
バテてます。
今日はこの本を紹介します。
敬称略で失礼します。赤字は引用です。

おむすびの祈り「森のイスキア」 (集英社文庫) Book おむすびの祈り「森のイスキア」 (集英社文庫)

著者:佐藤 初女
販売元:集英社
Amazon.co.jpで詳細を確認する


エッセイです。弘前イスキア、森のイスキアが出来た経緯、
著者自身の人生、長い病気の時期のこと、結婚などがつづられています。

著者は、「地球交響曲第二番」に出演されています。
僕は残念ながら見たことありませんが。

数年前、妹が友達から借りていたのを読んだのが最初でした。
そして、この本を読んで、キリスト教へと足を踏み入れました。

読み始めて、内容がキリスト教的だと知ったときは、“引いた”ことを覚えています。
でもなぜか読み続けて、最後は、もっとキリスト教のことを知りたい、と思うようになっていました。
僕にとっては、記念すべき本です。


私は、この生きている瞬間瞬間が祈りだと思っています。

だから、お茶をいれて、おいしく一緒に飲みましょうというのも祈り。

私にとっては、生活すべてが祈りです。


こういう文章を読んで、うらやましく思いました。
こんな風に生きたい、という憧れを持ちました。

今回読み直して、初心を思い返すことができました。
そして、当時に比べて、
キリスト教へ近づくことができたことを、感謝しています。

かなりキリスト教色が濃い内容なのに、
キリスト教界だけでなく、広く一般に受け入れられている、
珍しい本だと思います。
非クリスチャンの方にも、普遍的な“何か”を
訴える力を持っている本なのだと思います。

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毛利恒之「地獄の虹」を読みました

お久しぶりです。
暑くて本を読めません…。
そんな中、先日図書館で偶然見つけ、借りた本を紹介します。

地獄の虹―新垣三郎/死刑囚から牧師に (講談社文庫) Book 地獄の虹―新垣三郎/死刑囚から牧師に (講談社文庫)

著者:毛利 恒之
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

単行本もあります。僕が借りたのはこちら。

地獄の虹―新垣三郎 死刑囚から牧師に Book 地獄の虹―新垣三郎 死刑囚から牧師に

著者:毛利 恒之
販売元:毎日新聞社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

太平洋戦争時、
サイパン実業学校の生徒として生活していた
新垣三郎(以下、敬称略で失礼します)の人生です。

半分くらいまで、凄惨な戦争の様子が描かれます。
米軍のサイパン上陸、玉砕。
その混乱を生き延びた兵士たちの
さらに続くゲリラ的な戦い。
そこに加わる三郎。

そのとき出会った憲兵に心酔し、
命令され、収容所の日本人を殺す。
その憲兵に裏切られ、死刑判決、
その後減刑されて終身刑。
聖書との出会い、と続きます。
真に迫った描写で、一気に読めます。


この本には、新垣三郎の人生を辿るテレビドキュメンタリーの撮影旅行での様子と、
新垣の人生が平行して書かれています。
著者は撮影旅行に同行、
本の中では“三池と”いう三人称で登場し(なぜ苗字が変わっているのかは不明…)
新垣との旅で何を感じたのか、が描かれます。

新垣本人の人生と同時に、
テレビ撮影のために、その現場に本人を連れて行った著者の
感情の動きが本書に厚みを加えています。


後半はここでは書きませんが、信仰本のようでした。
これ(新垣の人生部分)がかつてテレビ朝日系で放送されたことが不思議です。
今って、キリスト教に限らず、宗教的な番組が少なくなったのかな。

お勧めです。

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「ガリラヤ湖畔の人びと」を読みました

とにかく、暑いです。
倒れそうです。
早く冬にならないかなあ (;´ρ`)

今日はこの本を紹介します。

Book ガリラヤ湖畔の人びと

著者:菅井 日人,小塩 節
販売元:日本基督教団出版局
Amazon.co.jpで詳細を確認する

小塩氏が文章、菅井氏が写真を担当されています。
月刊誌「信徒の友」に連載されていたものだそうです。

新約聖書の、ガリラヤ湖畔での出来事についての文章に、写真をつけたものです。
メインは文章です…写真集だと思って図書館で借りたら、文章が多かった…。

僕が言うのはおこがましいですが、なかなかいい本でした。
僕が言うのはおこがましいですが、文章がうまい。
小塩氏は、この本の紹介では、フェリス女学院院長です。
こんなところで「文章がうまい」と書かれていることを知ったら、苦笑いでしょうね。

印象深かったところを引用します。
マルコ 9:14~29(新共同訳の小見出しでは「汚れた霊にとりつかれた子をいやす」の部分)に関する章から…(赤字=引用)。

p43
行いすまして、立派に信仰者の生活を送っている、私には信仰がある、と自負したとたんに、そこには傲慢の罪がある。
信仰なきわれをと、うち砕かれた魂だけを神はよろこび、許し、救ってくださるのだ。

…こうして引用すると、インパクトが薄れますが…
文章全体を読むと、この言葉の重さを感じることができます。

信仰のためになる、いい本だと思います。…おこがましいですが…。
気安く買える値段ではないので、図書館で借りたほうがいいと思います。



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「時間はどこで生まれるのか」を読みました

お久しぶりです。
毎日暑くて疲れてます。
今日はこの本を紹介します(以下、「赤字」は引用です)。

時間はどこで生まれるのか (集英社新書) 時間はどこで生まれるのか (集英社新書)

著者:橋元 淳一郎
販売元:集英社
Amazon.co.jpで詳細を確認する


ミクロの世界では、色も温度もない(一個の原子には色も温度もない)。
例えば、
限定された「電磁波の範囲」を人は「」として感じ、
原子が「大集団」で「乱雑」に皮膚に当たるとき、「熱い」と感じる。
つまり、人が「」や「温度」として、感じているだけである。

同じように、ミクロの世界では、時間は存在しない。
原子100個でできた宇宙に時間は存在しない

それらの説明をした上で、
ではどこで「主観的時間」が生まれるのか、が示されます。

マクロの世界はエントロピーの法則に支配されている。

生命は「意思」によって秩序を維持させる。しかし、いつも無秩序の圧力がかかり、やがて死(無秩序)にいたる

秩序維持の「意思」は進化の過程で生まれた

エントロピー増大の法則による外の世界からの干渉」=「すでにあるもの」=「過去

秩序を保とうとする「強い努力」=「意思」が「未来」を作る。

つまり、無秩序に対抗して秩序を保とうとする意思が「主観的時間」を生んだ。


意思は、すでにある無秩序(死)の外圧を過去とみなし、

それに対抗して

秩序(生命)を維持するという自由を持つ。

その自由こそが、未来である。

無秩序に対抗することが、秩序の維持に役立つのだから、

進化(自然選択)の過程で、秩序の維持に役立つ、

意思が生まれてくる。

僕達は、意思によって、未来を作っている。


…こういうことが書いてあると思います。

自分がどこまで理解できたか分かりませんが、それでも、
世界は自分で思っているほど単純ではないんだなと思いました。
当たり前に感じているこの世界が、
よく見ると実は理解しがたいということ、
僕達はあくまでも人間の感覚を通して
世界を見ているのだということを、教えられました。



聖書もそうなのだと思います。
人間が書いたものであり、
その時代のその人の目を通して見た事柄なのだと思います。
聖書は人の目を通して書かれた書物なのだと。
人の目で歪められていない、
核心を読みたい、と思います。

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「知って役立つキリスト教大研究」を読みました

お久しぶりです。
今日の午前中は、
田んぼでトラクターに乗っていました。
田植えまでに、
3回くらいトラクターで耕運しなくてはなりません。
耕運する度に、土が細かな泥になり、
その泥が、モグラが掘った穴などに入り、
田から水が漏れなくなります。
僕が借りている田の面積は
そんなに大きくはないのですが、
田植えや草取り、草刈りなどで、
夏はけっこう忙しいです。
兼業なので、
休みの日にしなくてはなりません。

でも、
今年はがんばって礼拝にも出席します。
ちなみに去年は、
田植えから稲刈り、
つまり5月から11月まで、
礼拝にはほとんど出席しませんでした…sweat01

というわけで、
どれだけ本を読むことが出来るのか
わかりませんが、
読んだら、
このブログで紹介したいと思います。

今日はこの本を紹介させてください。

知って役立つキリスト教大研究 (新潮OH!文庫) 知って役立つキリスト教大研究 (新潮OH!文庫)

著者:八木谷 涼子
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

前から、この本の存在は知っていましたが、
なぜか本屋で見かけることがありませんでした。
新書だと思って、新書のコーナーを探していたからです。
実際には文庫でした。
古本屋で偶然見つけました。
以下、「 」内は引用です。

あとがきによると、この本の
「原稿のベースとなったのは、バベル・プレス発行の月刊誌『翻訳の世界』、及びその後続誌『eとらんす』における連載『くりちゃんホンヤク研究室』」
とのこと。
西洋の文章を翻訳するときに問題となる
キリスト教用語の背景を
確認するのに都合がいい本です。
あ、もちろん僕は翻訳なんてできませんよthink
巻末の付録、
「索引、英和対照表、教会の系譜、教派固定祝日対照表」
等々、かなり充実していて、
系譜を見ているだけでも楽しいです。
楽しがっていいのか分かりませんが…coldsweats01

自分が通っている教会が、
歴史的にどういう位置にあるのか、とか、
あの教派はそんな礼拝をするんだ、とか、
興味は尽きません。

意外だったのは、
三位一体を教義としない
“ユニテリアン”が、かなり影響力を持った“派”だったことです。
「『緋文字』のホーソーン」「電話を発明したアレクサンダー・グレアム・ベル」「フローレンス・ナイチンゲール」
など、たくさんの著名人がいたようです。
この本にも書いてありますが、
たしかに、内村鑑三を読んでいると
「ユニテリアン」という言葉がよく出てくるので
気にはなっていました。


この本は、
“ちょっと教会に行ってみたいけど、どの教会に行ったらいいのか悩んでいる人”
“自分が通っている教会がどこに分類されているのか知りたい人”
に役立つかもしれません。

ただし、
“キリスト教とは何かを知りたい人”
“信仰を深めたい人”
向きではありません。
あくまでも
教派の分類に関する本です。

イラストも全て著者が描いているとのこと。
器用な方ですart

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「ヨーロッパ文化と日本文化」を読みました

日々、温かくなっていきます。


先日、森山直太朗のコンサートチケットを買いました。
楽しみですdog
諸君!!(初回限定盤)(DVD付)
「諸君!!」も買ったので、頭に刷り込んでいますchick



今日はこの本を紹介します。

ヨーロッパ文化と日本文化 (岩波文庫) ヨーロッパ文化と日本文化 (岩波文庫)

著者:岡田 章雄,ルイス フロイス
販売元:岩波書店


著者のルイス・フロイスはイエズス会の宣教師として
1562年に来日、
1585年にこの本を書いたそうです。
2,3行の文で、ヨーロッパと日本を比べています。
例えば、一つ目は
「ヨーロッパ人は概して身長が高く体格が良い。日本人は概して体格もわれわれに劣っている。」
です。

そんなに面白い本ではないですcoldsweats01
淡々と風俗が比較されているだけです。
比較するために、わざと誇張されてたりするし。

だから、
最も目が留まったひとつを引用しておわります。

「われわれは拇指または食指で鼻孔を綺麗にする。

彼らは鼻孔が小さいために小指を用いておこなう。」

…どうでもいいことに見えるけど、
こういう観察が、後の文化人類学へとつながっていくのだろうか。






ブログ村へリンクします。

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ありがとうございましたjapanesetea


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「開墾の記」を読みました

この本を紹介します。

「開墾の記」
坂本直行著
新教出版社

近くの図書館にお願いして、
遠くの図書館から取り寄せてもらいました。
予想外に古い本で、びっくりしました。
初版が昭和17年、
手元に来たのは3版で、
昭和19年発行です。

著者は画家で、
ウィキペディアによると
六花亭の包装紙の絵を書いた人です。
また、
坂本竜馬の甥の孫、だそうです…。

内容は、
酪農を志す著者が、
北海道の十勝原野に入植した、
1年目から5年目までの開墾の記録です。

まず、
農耕や運搬に使う馬を一頭
買うところから始まります。
入植前にまず馬を買ったはいいが、
住んでいるのはまだ市街地で、
馬を入れておく場所がなく、
(借家なのに)裏庭の物置へつないでおく、
というのは、大雑把でうらやましい時代。

また、
家が大きそうだから部屋を貸してくれと、
飛び込みで来た仕立て屋に
(借家なのに)間貸しするのも大雑把な時代。

十勝原野に入植してからは、
雪(冬)と馬と牛、
この3つに関する文章が
かなりの部分を占めます。
生活の苦労は、
この3つの事に関することがほとんどだからです。
馬や牛の餌の確保、
馬や牛の出産、
馬や牛の死、などなど。
冬は北海道ならではの厳しさがあります。

冬支度が済む前に、豪雪になった冬の、
雪との格闘は、壮絶でした。
本当にこんなところで生きていけるんだろうか、
と、僕なら思う。
今、北海道はかなりの人口だと思うけど、
こんな風に寒さや貧しさと闘ってきたのだな、
と教えてもらいました。

それでも
著者の筆致はユーモラスで、どことなく温かい。
戦争が始まっていますが、
日々の生活でそれどころではない、といった風でした。
あるいは意図的にあまり触れていないのかも知れませんが。

この本、面白かったのですが、
今、新品はありません。
図書館で探してみてくださいcoldsweats01

北海道開拓の話を読んだのは
初めてだったので、
また他にも読んでみたいと思いました。






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ありがとうございましたconfident

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「ザビエルの見た日本」を読みました

イースターおめでとうございます。

礼拝に出席することが出来ました。
感謝します。

図書館にお願いしていた
本が届いたので、取りに行きました。
感謝します。

夕方、アマゾンで注文していた
「旧約聖書Ⅰ 律法」(岩波書店)
が届きました。
感謝します。


さて、感謝だらけの今日は
この本を紹介します。
「 」内は引用です。
敬称略で失礼します。

ザビエルの見た日本 (講談社学術文庫) ザビエルの見た日本 (講談社学術文庫)

著者:ピーター・ミルワード,Peter Milward,松本 たま
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

これは、
1549年に来日した
フランシスコ・ザビエルが書いた
友人宛の手紙から、
日本に関する部分を紹介した本です。
本の前半2/3くらいが手紙で、
後半1/3は、著者のピーター・ミルワードの解説です。
解説では、
ザビエルの独善的な見方への批判があり、
それに対して
時代的な制約があったので仕方がない、
と擁護します。
いずれにしても、
深い信仰と、布教の情熱があったことは
間違いないという解説でした。
ちなみに著者ミルワードは、
イエズス会の神父です。

ともかく、
ちょっと日本人を褒めすぎている感じがしますが、
興味深かったです。
まあ、褒められれば悪い気はしませんから。
たとえそれが僕のことじゃないにせよ。
例えばこんな感じです。
「キリスト教徒にしろ異教徒にしろ、日本人ほど盗みを嫌う者に会った覚えはありません」
「大部分の人は昔の哲学者のように暮らしていて(後略)」

でも、上から目線もビンビン感じました。
日本を正しく導いてやるぞ、的な。
いやになるほどではないですが。

あと、日本には
「いくら食べたいと思っても肉体を満足させるものは全然ありません。ここに住んでいる人びとは決して鳥を殺して食べたりせず、常食は野菜と米で…(略)」
とありました。
今の日本は、テレビをつけたらグルメに大食い…。
ザビエルもビックリでしょう。

講談社学術文庫は高価なので
(そりゃもちろん価値ある出版をされていると思いますが)
図書館で借りた方がいいかな、
と思います。








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ありがとうございいますfullmoon

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「人間イエス」を読みました

また雨です。
雲が低く空を覆い
世界は静かに
雨に打たれています。

P1000542
人間イエス
滝澤武人著
講談社現代新書



まずおことわりしておきますが、
この本はイエスをあくまでも
人間として描いています。
そういう見方に接したくない方は、
読まれないほうがいいと思います。
躓くかもしれません。
また、本の内容にあわせ、
「イエス様」ではなく「イエス」とします。
以下、「 」内は本からの引用です。

著者は、
「イエスを歴史的に描くため」
四福音書以外は全て
「補助的な間接資料として利用しうるにすぎない」
と言いきり、
特に最古の『マルコ福音書』をメインに、イエスを描きます。

この本におけるイエスの生涯を、
かなり大雑把にまとめてみると…。

イエスは(ベツレヘムではなく)「ナザレで」
「父はヨセフ、母はマリア」の子として生まれた。
それなりに良い教育を受け、
荒野でヨハネにより洗礼を受けた後、
被差別民衆の中に入り、
当時の価値観を転倒させるような教えを説きつつ活動し、
それによって民衆を励まし、
「ローマ帝国への政治的反逆罪」によって、
処刑された。
「復活は史実ではない」。

多分、
これでは宗教としての「キリスト教」ではなく、
著者自ら言うごとく、「イエス主義」でしょう。
クリスチャンとして、
上記のイエス像を受け入れる人は
ほとんどいないと思います。
イエスが人間なら
三位一体ではなくなりますから。

ちなみに、著者いわく、
洗礼について、イエスは
「人びとに一度も洗礼を授けてはいないし、洗礼を授けることを命令してもいない」。
悔い改めについても、イエスは
「まったく要求しない」。
また、聖餐は
「ユダヤ教の過越祭の宗教儀礼がキリスト教化された」もの、
です。

確かに、
クリスチャンとしては
“ありえない”イエス像かもしれませんが、
それでも
この本には読む価値があると思います。
その理由は主に、以下の四つです。

①現地の風景を感じさせてくれる。
著者自らの視線で、美しい筆致で、
ガリラヤの風景を感じさせてくれます。

②当時を想像し、状況を考えながら読むことにより、新鮮な気持ちで聖書を読むことができる。
例えば、
抑圧された被差別民衆を想像します。
「罪人-悪人」と見なされる被差別民衆。
彼らは悔い改める必要などない。
イエスは
「義人」「善人」を否定することによって、
「義人-罪人」「善人-悪人」という考え方そのものを
否定します。
差別の中でもがく人々に対しては何も求めない、
イエスの姿があります。

③マルコ福音書の見方が変わる。
特に、
マルコが原始キリスト教団で特権的エリートだった
弟子達(十二使徒)を批判しているという点。
例えば、
イエス復活の部分で、
ペテロを中心とした弟子達は、
イエスが復活して自分達に顕現したことを既成事実とする。
それに対し、
マルコは、
イエスの復活を未来のこととして、希望として描いている。
弟子達は復活を見ていない。

『マルコ福音書』において、
「女たち」は、空になった墓の前で、
イエス復活のメッセージを受け取ったが、
「誰にも何も決して語らなかった」のであり、そのことは
「弟子たちがガリラヤでイエスに出会うという可能性を完全にシャットアウトしているとしか読めないであろう」
と著者は言う。
「女たちが弟子たちにこの復活のメッセージを伝えたというのは、マタイ(28:8)やルカ(24:9)やヨハネ(20:18)による護教的な修正にしかすぎない」
と。
エルサレムの特権的エリートを批判する、
「最初のイエス主義者=マルコ」という見方です。
『マルコ福音書』を、
今までとは違った目で読めそうです。 

そして
④とにかく著者が熱い。
熱心な「イエス主義者」です。
「イエスに従え!」という叫びに、
いつのまにか、僕も熱くなってきます。
上記のように
「復活は史実ではない」と著者は
言っていますが、同時に、
フランシスコ・ザビエルや、アッシジのフランシスコ、マザー・テレサを例にあげ、
「イエスを愛しイエスのように生きようとする人びとの中でイエスはつねに復活する」
とも言っています。

この本には、
賛同できる部分と
否定したい部分があるのですが、
著者の話術に負けて、
熱意にほだされ、
いずれにしても、
「イエスのようでありたい」
「イエスに従いたい」
と思わされました。

この本が刊行された1997年の時点で、
著者は日本聖公会の信徒であり、
聖公会系の、桃山学院大学の教授でもあるそうですが、
教会でも、『イエスは人間だ』
と言っておられるのかなあ…。

聖公会は懐が深い!





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「そよ風のように生きる-旅ゆくあなたへ」

ここ数日少し雪が降りました。
今は、薄く積もった雪の上に
雨が降っています。

今日は事情があって
礼拝には行かず、
家でじっとしていました…。


P1000514
そよ風のように生きる-旅ゆくあなたへ
バレンタイン・デ・スーザ著
女子パウロ会

著者は(1991年時点で)、
東京イグナチオ教会助任司祭とあります。
講座の受講生達が、
著者の言葉をまとめたものです。

受講生の方々は、
授業で聞いた素晴らしい言葉を
世に出したかったのだと推測します。
確かに、心に響く、
すてきな文章がつまった本です。

「愛と優しさ」
「祈り」
「ひととのかかわり」
「日々の生活」
「いのち」
「神と出会う」
「信仰」
「たまもの」
「悟り」
と、9つの章にわかれています。
読むと、気持ちが穏やかになり、
少し元気がでてきて、
「ああ、こんな風に生きたいな」
と思わせられます。

引用してみます。
「神と出会う」から
「明日があると思ってはなりません。今日一日が大切であり、今が大事なのです。生きていることが習慣になってはなりません。朝の目覚めは奇跡です。今日一日、いのちをいただいたことに感謝しましょう」

「たまもの」から
「ひとりひとりは神様の傑作です。ですから、ひとと比較することは神様への冒涜です」
「現在の生活は神様からの贈り物、そして、これからの生活は神様への贈り物です」

「さとり」から
「死は怖いものでも、恐ろしいものでもありません。一日生きれば、一日死に近づいているのです。死は迎えるもの、毎日心の準備をすべきです」

もちろん、これはほんの一部です。
これ以外にも
示唆に富んだ、恵みに満ちた言葉が
たくさん詰まっています。
ぜひ、一家に一冊、です!

クリスチャンでない方にも、
訴える力を持った本だと思いました。





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「もしキリストがサラリーマンだったら」を読みました

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

もしキリストがサラリーマンだったら」を紹介します。
鍋谷憲一 著
阪急コミュニケーションズ
(以下、「 」内は引用です。敬称は略させていただきます)

お正月に、人に借りて読みました(ので、今はもう手元にありません)。
著者は、元商社マンの牧師です。
短編小説の体裁で、
クリスチャンのサラリーマンが、
仕事で辛い状況になったとき、
どう生きるか、ということが書かれています。
例えば閑職につかされた時とか、
同僚が先に出世した時とか、
談合のような不正をしなければならない時とか、です。

実際、全く何も不正をせずにサラリーマンをするって、
難しくないですか?
談合とか、クレーム対応でちょっとした嘘をつくとか、
雇われの身だったらなおさら、
流れに身を任せてしまいませんか?
ハイ、僕は任せます…。
でも、そういう時に、
ちょっと待て、クリスチャンとしてよく考えてみよう、
というのがこの本です。

僕がサラリーマンだった時に読んだら良かったなあ、と素直に思います。
不正だけではなく、
毎日の単調な仕事に飽き飽きして、
ただ週末を待つだけの日々を過ごしていました。
週末を待ったからといっても、
週末に何かをするわけではなく、
時間を垂れ流していました。
今思うと、せっかく若かったのだから、
勉強とか旅行とか、何でもできたのに、と悔やみます。
なにより、信仰に出会っていたらなあ、と思います…。

でも正直、この本の主人公は、
かっこよすぎる気もします。
うまくいきすぎ、と感じるストーリーもありました。
自分だったら、こんなに上手くはできない、と。
おそらく著者は、
サラリーマン時代、バリバリ働かれていた、
優秀な方だったのだろう、と想像します。
仕事の能力がない、というか、
努力する気力がない人間は、
この本の主人公より、
もっともっと悩むことになるだろうと思います。
もちろんそれでも、クリスチャンとして、
誠実に人生の選択をしていきたい、
と思わせてくれる本でした。

何はともあれ、
今、僕の目の前にある仕事を
全力ですることができますように。

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