また雨です。
雲が低く空を覆い
世界は静かに
雨に打たれています。
「人間イエス」
滝澤武人著
講談社現代新書
まずおことわりしておきますが、
この本はイエスをあくまでも
人間として描いています。
そういう見方に接したくない方は、
読まれないほうがいいと思います。
躓くかもしれません。
また、本の内容にあわせ、
「イエス様」ではなく「イエス」とします。
以下、「 」内は本からの引用です。
著者は、
「イエスを歴史的に描くため」
四福音書以外は全て
「補助的な間接資料として利用しうるにすぎない」
と言いきり、
特に最古の『マルコ福音書』をメインに、イエスを描きます。
この本におけるイエスの生涯を、
かなり大雑把にまとめてみると…。
イエスは(ベツレヘムではなく)「ナザレで」
「父はヨセフ、母はマリア」の子として生まれた。
それなりに良い教育を受け、
荒野でヨハネにより洗礼を受けた後、
被差別民衆の中に入り、
当時の価値観を転倒させるような教えを説きつつ活動し、
それによって民衆を励まし、
「ローマ帝国への政治的反逆罪」によって、
処刑された。
「復活は史実ではない」。
多分、
これでは宗教としての「キリスト教」ではなく、
著者自ら言うごとく、「イエス主義」でしょう。
クリスチャンとして、
上記のイエス像を受け入れる人は
ほとんどいないと思います。
イエスが人間なら
三位一体ではなくなりますから。
ちなみに、著者いわく、
洗礼について、イエスは
「人びとに一度も洗礼を授けてはいないし、洗礼を授けることを命令してもいない」。
悔い改めについても、イエスは
「まったく要求しない」。
また、聖餐は
「ユダヤ教の過越祭の宗教儀礼がキリスト教化された」もの、
です。
確かに、
クリスチャンとしては
“ありえない”イエス像かもしれませんが、
それでも
この本には読む価値があると思います。
その理由は主に、以下の四つです。
①現地の風景を感じさせてくれる。
著者自らの視線で、美しい筆致で、
ガリラヤの風景を感じさせてくれます。
②当時を想像し、状況を考えながら読むことにより、新鮮な気持ちで聖書を読むことができる。
例えば、
抑圧された被差別民衆を想像します。
「罪人-悪人」と見なされる被差別民衆。
彼らは悔い改める必要などない。
イエスは
「義人」「善人」を否定することによって、
「義人-罪人」「善人-悪人」という考え方そのものを
否定します。
差別の中でもがく人々に対しては何も求めない、
イエスの姿があります。
③マルコ福音書の見方が変わる。
特に、
マルコが原始キリスト教団で特権的エリートだった
弟子達(十二使徒)を批判しているという点。
例えば、
イエス復活の部分で、
ペテロを中心とした弟子達は、
イエスが復活して自分達に顕現したことを既成事実とする。
それに対し、
マルコは、
イエスの復活を未来のこととして、希望として描いている。
弟子達は復活を見ていない。
『マルコ福音書』において、
「女たち」は、空になった墓の前で、
イエス復活のメッセージを受け取ったが、
「誰にも何も決して語らなかった」のであり、そのことは
「弟子たちがガリラヤでイエスに出会うという可能性を完全にシャットアウトしているとしか読めないであろう」
と著者は言う。
「女たちが弟子たちにこの復活のメッセージを伝えたというのは、マタイ(28:8)やルカ(24:9)やヨハネ(20:18)による護教的な修正にしかすぎない」
と。
エルサレムの特権的エリートを批判する、
「最初のイエス主義者=マルコ」という見方です。
『マルコ福音書』を、
今までとは違った目で読めそうです。
そして
④とにかく著者が熱い。
熱心な「イエス主義者」です。
「イエスに従え!」という叫びに、
いつのまにか、僕も熱くなってきます。
上記のように
「復活は史実ではない」と著者は
言っていますが、同時に、
フランシスコ・ザビエルや、アッシジのフランシスコ、マザー・テレサを例にあげ、
「イエスを愛しイエスのように生きようとする人びとの中でイエスはつねに復活する」
とも言っています。
この本には、
賛同できる部分と
否定したい部分があるのですが、
著者の話術に負けて、
熱意にほだされ、
いずれにしても、
「イエスのようでありたい」
「イエスに従いたい」
と思わされました。
この本が刊行された1997年の時点で、
著者は日本聖公会の信徒であり、
聖公会系の、桃山学院大学の教授でもあるそうですが、
教会でも、『イエスは人間だ』
と言っておられるのかなあ…。
聖公会は懐が深い!
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