内村鑑三

「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」

今回はこの本を紹介します。
P1000681余はいかにしてキリスト信徒となりしか
内村鑑三著
松沢弘陽訳
中央公論社
『日本の名著 第38巻』所収





内村は
17歳で札幌農学校に入学し、
先輩達によって、半ば強制的に信仰へと導かれます。
卒業して社会に出て、自分達の独立した教会を設立した後、
アメリカへ渡航して、真の回心を経験し、
28歳で帰国します。
その約10年間の、内村自身の心の移り変わりを描いた、
信仰に関する自伝です。
出版は35歳の時、
英語で書かれたものです。

まず、単純に、面白い。
ひとつの青春小説としても十分楽しめます。
学生時代の若若しいエピソードは、
まさに青春映画を見ているようです。
社会人となり、自分達の教会をつくりながら
大人としての貫禄がついていく様子は頼もしく、
さらに公務員の職を捨ててアメリカへと渡り、
孤独の中で信仰を深めていく様子も、
読者を飽きさせません。
アメリカから帰ってきてからの
内村も波乱万丈ですが、
28歳ですでに
こんなに密度の濃い
人生を送っていたんだなあ、
と驚きました。

内村自身の信仰の歩みが
描かれているので、
内村の成長と共に、読者も、
キリスト教とは何か、
救いとは何か、
ということを知っていくことになります。
それが何かは、ここでは書きません…。
…それを書くとなると大変なので…。
上手に書けそうにないです。
だからぜひ、読んでみてください。
絶対に損はしません。
図書館へ行けば、必ずあるはずです。


前にも書きましたが、
内村鑑三の信仰は、
キリストによる福音の喜びに満ちていながら、
近代的/科学的知性とぶつかり合うのではなく
共存している、
バランス感覚に優れたものです。
少なくとも、僕にはそう見えます。

だからこそ、
明確な“派”ではない
「無教会」がいまだに存続し、
多くの人に影響を与えてきたのではないでしょうか。

ついでに書くと、
僕がはじめて「無教会」という言葉に接したのは
立花隆の『思索紀行』です。
その中の「ヨーロッパ反核無銭旅行」に、
「両親が無教会派のクリスチャンだった」と書いてあります。
「無教会」って何だろう、と、
興味をそそられたのがきっかけでした。
…余談でした。


この『日本の名著 第38巻』
の付録に、翻訳した松沢弘陽と、
評論家の松田道雄の対談が載っています。
そこに、内村鑑三が、「佐幕派の子」である、
という視点があり、面白い。
(ちなみに、明治元年に、内村8歳)
内村は「佐幕派の武士の子で」あり、
佐幕派の子は
「政府にのけ者にされたという意識がひじょうに強くあって、薩長の米は食わない、という連中が札幌へ集まっていったし、のけ者の意識は内村の考え方の根底にあった」
とのこと。
僕にとって、幕末、明治維新は、
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」
のイメージしかなかったので、
佐幕派の武士の子、というのは新鮮でした。
薩長の志士が新しい日本の中枢を占めるのと同時に、
佐幕派だった若者達も、
自分で人生を切り開いて行ったんですね。
まあ、そりゃそうでしょうけど…。
内村は中枢側の人間ではなかったからこそ、
狂信的な、戦争好きの、独善的な愛国者ではなく、
平和志向の、視野の広い愛国者たり得たのかもしれない、
と思いました。
というのはちょっと単純すぎるかな…。

もっとも、キリスト者からすれば、
上におられるのは唯一の神なのであって、
この世のものは全て平等であり、
よって愛国心という心情は
意味を失うと思うのですが…。
まあ、人によって考えは違うでしょうけど。


とにかく、
この本はお勧めです。






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「キリスト教問答」を読みました

今日は晴れて、
教会に光が
差し込んでいました。

P1000555_2
キリスト教問答
内村鑑三著
講談社学術文庫
以下、「 」内は引用です。




このブログに書こうと思い、再読しました。
再読のわりには、
読むのに時間がかかりましたが…。
初めて読んだのは、1年半くらい前です。
そういえばその時も、
なんだか分かったような、分からないような、
そんな気持ちでした。

正直言って、読みにくいです。
口語なのでしょうが、
使われている言葉が古く、
聖書の引用等は文語なので、
分かりにくい部分があります。

それでも、農学校を出て、
農務局水産課で勤務した、
いわば“理系”である著者が
書いたこの本は、
科学万能主義的教育を受けてきた
僕にとって、
とても助けになります。

簡単に言えば、
合理的、近代的人間が、
いかにしてキリスト教という
“宗教”を
信じることができるのか、
そういう疑問に答える形で、
この本は書かれています。
例えば、
・「来世」はあるのか。
(著者の言う「来世」とは、天国のことだと思う)。
・「聖書ははたして神の言(ことば)」なのか。
・「奇跡」とは何か。「近世科学と衝突すること」はないのか。
など、聖書を読んで、
あるいはキリスト教に接した時、
疑問を感じるであろうことについて、
著者の考えが述べられます。
その全てを理解できたわけではありませんが、
少なくとも、
こんなに立派な人が信じているんだから、
僕も信じてみたい、
という気持ちにさせてくれます…。

著者は、「実験」という言葉をよく使います。
この「実験」とはおそらく、
“実体験”とか“経験”という意味でしょう。
例えば、「来世」について。
「聖書以外にも来世」の「存在」を証明をする根拠を持つとして、
「第一は、人類の宗教的本能」、「第二は、偉人の証言」、
「第三は、私ども自身の生涯の実験であります」
と述べます。
そして、
「実験」から得る、来世存在の証拠とは、
「私より来世の希望を奪う者は私の命を奪うものであります。これなくして、人生は私には無味のものとなります。」
ということです。

はぐらかされたような気もしますが、
最終的に著者は、
自分が信じれるかどうかにかかっている、
と、突き放しているように見えます。
一応合理的な説明はするけど、
最終的には、自分の体験、人生の経験から、
自分で信じるしかない、と言ってるような。

例えば「復活」について。
復活とは「霊魂の復活であり」、
それは「死せる肉体の復活よりもさらに驚くべき」ことであるとします。
それに対してのくだり。
質問者、
「霊魂というような、そんな漠たるものの変化を取って、それを厳然たる肉体の変化に応用することはできますまい。」
著者、
「それはそうではありません。霊魂の事はけっして漠たることではありません。もしその事をお疑いになりますならば、貴下ご自身その事をご試験なさることができます。(略)もし貴下の成育されし家庭がけっして善良のものではなくして、貴下の若き心の中にすべての悪念が注入されしにもかかわらず、もし一朝に、ある奇態なる感化力によって、貴下の心より、ひょうの皮よりその斑が取りのけられるるように、罪念が根こそぎ取り去られますならば、貴下はかならずこれ天然以上の力であると仰せられるに相違ありません。
 自己(おのれ)にこの事を実験したものは誰でも申します、死んだ霊魂を読みがえらする事は死んだ肉体をよみがえらすにまさるの大困難であると。そうして私どもは各自この奇跡を実験しておりますゆえに、肉体の復活を聞いても少しも驚かないのであります。」

結局は、自分で経験してみろと、
そういっているように見えます。

僕の話で恐縮ですが、
正直なところ、残念ながら、
時々、
本当に神様はいるのか、
イエス様が罪のあがないとして十字架にかかられったって、本当なのか、
と思ってしまうことがあります。
そういう時、
「じゃあ僕は、
神様なしで、イエス様なしで、信仰なしで、
これから生きて行けると思うのか」
と自問します。
そして、
「そんな人生、いやだ」
となり、
そう思う自分に、安心します。
誰がなんと言おうと、
自分は信仰を欲していると、気づくわけです。

話が脱線しましたが、
つまり著者は、
キリスト教を信仰する理由を
“合理的”に説明しようとするのと同時に、
信仰は自分の内側から、いわば“非合理的”に沸き起こってくるものだ
と言っているのだと思います。
そして僕は、
あたかも合理的にすべてが説明できるかのように言わない
著者の正直な態度に、共感します。
合理的な部分と、そうでない部分を
見極めた上で信仰することは、
大切なことのように感じました。



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